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富士通を卒業するについて

            富士通を卒業するにあたり

                 私の思い出

 37年間お世話になった富士通を無事、卒業することになりました。素晴らしい仲間と

先輩と後輩に恵まれた事を本当に感謝したい。そして、なにより亡き母に感謝したと思います。

 (入社の動機)

 学生時代は体育会ワンダーフォーゲル部に属し、山歩きに夢中になり年間百日も山の中で生活をしており、仲間と昂じて遂に日本アルプスの鹿島槍ヶ岳に山小屋を建設するほど夢中でした。

 しかし、就職の季節が訪れ、私は専門が国際金融論でしたので先生からは銀行を勧められました。又、華やかそうな航空会社とか化粧品会社に行きたいと考えたのです。しかし、明治生まれの厳しい母に一喝され、“男たるもの、物作りの会社に奉公し日本を支える気概で一生を送りなさい”と厳しく諭されました。

 たまたま、富士通からゼミの先生に二人、富士通に来ないか?と打診があり、先生は物好きな奴で大企業では無いが将来性は有るかも知れない、誰かいるか?と問いかけられ、私と同じく、ラグビー部で毎日グラウンドを走り回っていた浅野君と富士通に入社する事になりました。

 (第三市ヶ尾寮の思い出)

 人事部の採用担当の偉い人から、面接があり、“君の売りは何か?”と問われ、持ち前のファイトと何処でも寝ることが出来る体力です!と答え、笑って採用となりました。そんな、いい加減な?時代だったのかも知れません。

 最初に、落ち着いたのが、第三市ヶ尾寮でした。未だ、外壁を塗ってるような、にわか作りの建設現場の飯場のようなバラックでした。六畳一間に二人押し込められ、相撲をすると壁に穴が空き急遽、外壁を塗ってる職人さんが塞ぎに来てくれました。

 風呂に同僚と入っていると、突然壁が崩れ泥だらけになる有様で、これからの会社生活が大いに不安になった記憶が有ります。

しかし、この時の寮の仲間とその後、37年間、苦楽をともにするとは思いもよりませんでした。

 (オンライン時代の挑戦)

 最初の職場は大型金融ユーザ班でした。毎日徹夜で証券会社に提案書を書かされました。当時、乾式のコピー機でアンモニアを使うので、朝方は頭がおかしくなっていました。けど、全滅でした。当時のUNIVAC494に全ての商談を負けた記憶です。

 しかし、我々は商談を獲得しないと、次の仕事が無いのです。必死でほぼ獲得まで辿りついたのが東京証券取引所の大型オンライン商談でした。当時、メモリは高価でした、しかし比較的安価でLCMというメモリを持つF230-60は取引所の板を展開するのに最適なシステムであったのです。しかし、政治的に敗退しました。この時の恨みは後世残り数年後には奪還したのです。

 やっと、全銀協オンラインシステムの大型商談が獲得できました。私は中継コンピュータを担当させられました。F230-15という計算機ですが、ハードウエアしか存在せず、オンライン専用のOSの開発から始める必要がありました。今のように、全てが揃っていてアプリを開発すれば良い次代ではなかったのですね。

 ハードの設計者と毎日打合せをして、OSの開発に着手しました。一年先輩の人とあとはオンラインの神様と呼ばれた三浦さんの書かれた汚い癖のある字で書かれたメモしかない時代です。文科系出身の私が何でハードウエアのインターフェース仕様書でOSが作れるのか?しかし、周りを見渡すと高校卒業の人々が黙々と制御プログラムを作っている。

 ここで、考えました、どうせ大学では勉強していなかったのだから高校卒業した人と変わりは無いのだから、一から勉強すれば彼らに追いつけると。猛勉強を始め寮に帰るのは週末だけという日々が続きました。

 (学歴は関係ない実力の世界)

 これが、長い富士通生活で辿りついた結論です。私が最初に担当して開発した全銀協オンラインシステムが全てでした。ハードウエアを設計する人々、OSを開発する人々、アプリを開発する人々、営業を担当する人々、保守をする人々、全てがプライドを持ち、且つ、お互いに助け合う世界が成功を導くものだという結論がこの最初の仕事で得る事ができました。

 学歴は関係ない、わたしのような文科系でもやれば出来る、勉強すれば道が開ける、高校卒業の人にもプログラムで負けてしまう。むしろ、学卒よりも余程優秀な人材が揃っていたのが現場でした。そして、その後の私の長く付き合える人々はこの苦労をともに分かち合った人々のお陰で37年間無事過ごすことが出来ました。

 (上司の役割)

 旗を掲げる事に尽きます。旗の下に人々は集まる、同じ志を持つ連中が結束して戦いを行うのが集団です。部下に責任を与え結果を上司が全て取るのが当たり前です。これが、なかなか出来ないのが私の経験でした。ついつい、気になるのですね。しかし、部下の仕事に口をだしてはいけないと思います。

 上司は部下が仕事をやり易いような環境を整備するのが仕事。建設現場の監督と同じです、事故が起こらないように毎日現場を観察し、病気の奴はいないか?土を捨てる道に障害物は無いか?埃が舞い上がれば、監督が水を撒く、近所の住民が文句を言う口実を未然に防ぐ、・・・同じだと思う。

  (最後に)

 厳しい母の一言が無ければ今の私はいない、富士通という恵まれた人材の環境で人生の大半を過ごせたのも母のお陰です。本当に感謝したい。

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「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Comments

よいお話ですね。
……
読みやすかった理由を考えてみました。富士通黎明期ということの、一私企業の固有性が、しらないまに、日本の当時に繋がっていたわけですね。

 相撲をとったら壊れるような寮に富士通社員は住んでいた、だなんて、あははははは。涙がとまらないよ。感激(何度目かの記事だけど、これ、気に入っているのです)。

「“君の売りは何か?”と問われ、持ち前のファイトと何処でも寝ることが出来る体力です!と答え、笑って採用となりました。そんな、いい加減な?時代だったのかも知れません。」
 多分、ゼミを通して情報は入っていたでしょうが、こういう面接だけの入社は、私にもよく分かります。どんな仕組みを作っても、人間は変わっていくものだし、どんな慧眼の士でも、見誤るものです。
 人事はアバウトがよろしな。一点、二点の差で人生変わるシステムは愚の極みと、いま、書きながらはっきり分かりました。そんなもの公平でもなんでもないです。判定者の逃げに過ぎません。

「(上司の役割)旗を掲げる事に尽きます。」
 私もここ数年「誠」の旗を立てていますが、なんというか、読めない人がいたらどうしよう、という雰囲気もあるよね。
 昨年熱中した北方謙三『水滸伝』では、替天行道、でした。天に替わりて、道を行く、行う、ちゅうことです。「旗」大切ですね、人には。

Posted by: mu | 2006.04.22 at 12:12 PM

muさん

数ヶ月先輩だそうですが、一応、同世代ですね。貧しい時代でしたが、希望に溢れていた時代です。こんなに楽しい会社生活を送れたのは、仲間に恵まれたからだと思います。

会社全体なんて、所詮は判らないわけです。身近な戦闘集団が全てなのですね、そこのリーダが如何なる旗を掲げているかで全てが決まるように思います。

最近、会社の方針がどうとかこうとか、愚痴を言う人を時折みかけますが、身近な戦闘集団はどうなのか?と問います。旗を掲げるべき人が駄目ならそいつを、倒して自分が新しい旗を掲げればよい。

時代は変われど、所詮は人間がやる世界では変わらない世界が有ります。muさんは”誠”の旗を掲げてやっておられますが、若者で読めない人がいてはいけませんね?(笑)

ともかく、区切りです、書きたいことは仰山ありますが、そこは、blogで書きますので記事を読んで頂くとして(笑)これからの、私の第二の人生の挑戦をお楽しみ下さい。

Posted by: jo | 2006.04.22 at 02:19 PM

はじめまして。
私、つい先日富士通の内定を頂いたばかりの大学院生です。
偶然拝見したブログを見て、心動かされるものがありました。

就職先を富士通に決めたあと、ネット上の良くない噂を多々見るにつけ、いささかの落胆をおぼえていた私にとって、たいへん勇気付けられる記事でした。
私は、やり遂げたいことを胸に富士通を選びました。この会社なら、きっと夢を実現できると信じて選びました。
筆者の方のように、富士通で充実した企業生活を送りたい。そう願っています。

第二の挑戦、頑張ってください。
私も、負けないように富士通で戦ってきます。

Posted by: namiya | 2006.05.11 at 09:31 PM

mamiyaさん

今私は京都にいます、これからのアジアについて真剣に考えています。齢は60になるが君には負けない積りだ。

富士通のOBは新人に負けるようではいけない、対等なのだ。君のような挑戦したい人は必ず報われる世界が富士通の伝統です。

これからの貴方の活躍と挑戦を期待します。何かあればメール下さい。

Posted by: jo | 2006.05.12 at 12:28 AM

私も昭和55年(1980年)に入社し第三市ヶ尾寮で青春を過ごしましたので、とても懐かしく読ませてもらいました。確かに掘っ立て小屋より少しましな建物でしたが、寮の管理人さんが私と同郷の山形の人で、居心地の良い寮でした。風呂の真上の部屋で、畳がいつも湿気っぽい部屋に東工大出身のSE(潮田さん)と同部屋でした。富士電機製の洗濯機いつも誰かが使っていて洗濯ができないこと、流しに巨大なムカデが住み着いていたことが思い出されます。恋人(今の妻)から管理人室の前に置いてある唯一の赤電話に電話がかかって来て、スピーカーで呼び出されるのが最高に幸せな瞬間だったことなど、多くの思い出が第三市ヶ尾寮とい名前から鮮明によみがえって来ます。私の時代はM100シリーズが出たばかりの時代で、IBMに負けじと全社一丸になってがむしゃらに働いていた時代です。月の残業が100時間越えるのが当たり前の時代ですした。私はCEでしたがハワイのJAIMSに駐在し、その後ニューヨークに駐在と海外が長く、その後訳あって1996年に富士通を退職し、アメリカのFSBAという富士通の米国法人に拾ってもらって最後は富士通アメリカで2011年まで勤めて(最後は解雇され)、一昨年に帰国しました。帰国する時は富士通のアメリカ日系顧客を20年以上サポートしていたので顧客から大変感謝の言葉をいただき感激したと同時にこれからの北米日系サポートの質が落ちることをが心配でなりませんでいたが、これも時代の流れかと諦め、このまま引退するには少し早いし、いまさら富士通(CE出身なので富士通エフサス)には戻れないので今は某自動車会社のデータセンター(IMBユーザです)でネットワークの運の仕事をしています。でも富士通という組織に30年以上いたので、いまでも富士通の社員のような気がします。富士通とは不思議な会社で、良くも悪くも失敗しながらも突き進む会社で、とてもすばらしい会社であると思いますので、これから入社する若い人たちも、挑戦する気持ちを忘れずに富士通を支えてくださることを期待しています。

Posted by: Takao Umetsu | 2014.01.08 at 09:00 PM

Uematsuさま コメントありがとうございます

 第三市ヶ尾寮の後輩なんですね、今はもう跡形も無いと聞いています。そして、アメリカのFSBAでご活躍されていたんですね。

 私が米国駐在中は、CE本部から今もお付き合いのある宮井さんが一人でサンノゼに駐在され、米国の日本企業のメインフレームを保守されていました。

 何もかも、挑戦する事が許される素晴らしい会社でしたね。今の経営者がどうかはコメントする情報も無いので出来ません。

 お互い、素晴らしい思い出を共有できて嬉しいです。これからも、頑張ってください。

Posted by: jo | 2014.01.09 at 07:13 PM

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