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壬申の乱 前夜の情勢

2006年2月8日 NHKその時歴史は動いた、という番組で”壬申の乱”が取り上げられた。内容は、Muさんが記事にされているので、ご参照下さい。

MuBlog 壬申の乱

内容は教科書通りの内容と思いました。私にはグローバルな視点が十分ではないような感想を持ちました。何故なら、壬申の乱は古代最大の内戦であった訳で、のっぴきならぬ事情が戦う両陣営には存在したと思うのですね。

(日本列島は戦時体制だった)

壬申の乱の前夜はどないな世情であったのか?事実関係を並べるだけで、日本列島は朝鮮半島の動乱の影響を受け異様な戦時状況であったと、想定されます。

・661年 筑紫 朝倉宮にて斎明天皇崩御さる。(暗殺の噂あり)この頃、朝廷の重要人物は全て筑紫に滞在。

・662年 日本が預かっていた百済皇太子、豊ショウに大軍団をつけ、百済遺臣の鬼室福信を目指し上陸させる。

・663年 白村江にて唐・新羅連合軍に大敗する。(約3万5千とも4万ものヤマトの兵派遣)

・664年 5月 唐の百済鎮将 劉仁願の使者である郭務宗が筑紫に到着。

・665年 9月 劉仁願、郭務宗 筑紫到着 10月入京12月帰国

・667年 唐使者 司馬法聡筑紫着、近江遷都挙行

・670年 新羅は唐に対して戦争を仕掛ける

・671年 6月 唐使者 李守眞来日 軍事協力依頼か?

・同年  11月 郭務宗 日本の捕虜1400名を含む2000の軍団到着

・同年  12月 天智天皇崩御さる(46歳)

・672年 3月 唐より書簡届く 5月 郭務宗帰国

・672年 6月 壬申の乱勃発

白村江での大敗北のあと、北九州には水城を築き、瀬戸内海沿岸にも多くの城を築き、飛鳥斑鳩では高安城を築き、近江に強引に遷都している。これは、唐・新羅と戦争する戦時体制であります。

天智天皇の政権では百済救援という軍事行動により大敗北を蒙り、且つ、唐・新羅に攻撃を受ける可能性を開いてしまった。防人が必要になり、北九州を始め国内の重要拠点には国内戦争を想定し多くの城を築き食料を備蓄した。

半島情勢は670年を契機に一転し、新羅と唐の戦争状態に突入始めた。そこで、天智政権がどのような海外政策を考えたたのか?これが、鍵になると考えています。

(百済鎮将 唐の提案)

671年という年はめまぐるしい緊迫した国際情勢でした。唐は白村江の捕虜1400を返還し、捕虜の筑紫の君も開放する。そして、軍事要請をおこなったと考えて無理は無いのではないでしょうか?今ごろになり、何故、膨大な捕虜を返還しますか?

唐の使者 李守眞に何と回答したんだろうか?(百済鎮将という現場では何がなんでも日本の軍事的協力が必要ではなかったんでしょうか?)私の邪推によれば、(笑)前向き(笑)に答えたと考えます。証拠は数ヶ月後に捕虜を筑紫に大船団で連れて来たからです。

天智天皇は百済再興についても話をした可能性が有りますね。私なら、相手の弱みにつけ込んで言いそうです。大敗で失政と言われた海外戦略に又、光が見えたと考えて不思議はないのでは、と、思います。

(大海人皇子 新羅につく)

私は朝廷で大激論が戦わされ、日本各地でもこの際、どちらに味方するか、議論は割れたと思います。東国は朝鮮半島とは関係が薄いので、海外派兵反対だったのでしょうね。それに、尾張氏は元々が海人族です、出雲系統ですから親新羅系統なのですね。

私は、動乱の国際情勢が壬申の乱の根本的原因では無いか?と推理しています。しかし、状況証拠しか有りませんし、日本書紀・古事記は何故か証拠を残していないのです。だから、あくまで推理です。

状況証拠と言えば、天武天皇は今までと180度半島政策を変更し、親新羅外交に出ます。これも、状況証拠ではないだろうか。私は大海人皇子は半島軍事不介入論者であったと思います。

ところで、扶桑略記という、3,4百年後の書物では天智天皇は狩りに出たまま行方不明になったと、暗殺を匂わせています。そのような、言い伝えもあったんでしょうね。

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Comments

 国際政治にはまったくうといMuですが、また目を開かれた思いがしました。

 壬申の乱前後は、日本は外交戦略を立て直して、唐や新羅に対応しないと、白村江敗戦処理が完了しないわけですね。

 むむむ、天智暗殺がささやかれるのは、そういうことですか。

 ともかく、現代のアメリカや中国や韓国や北朝鮮のことを思い浮かべると、切実さがぼんやりと分かってきます。
 もちろん、各国とも脅威はないとおっしゃる政治家やインテリが多い昨今なのですが(笑)

Posted by: mu | 2006.02.09 05:10 PM

Muさん

当時の国際情勢の緊張は並ではなかったのでは、ないでしょうか?世界最大の帝国、唐を相手に戦ったのです。それが、白村江の戦いです。

そして、今度は唐帝国から応援を求められる。どうしますか?西日本の連中はコリゴリでしょうし、東国の連中は関係無い!と、思うてるでしょうね。

問題は日本書紀なんですね、天武天皇が編纂を指示されたんでしょうが、出来たのは奈良時代720年ですからね。天武天皇のご意見というより、持統天皇(天智天皇の娘)と藤原不比等の意思が?と、勘ぐるんですが。

しかし、国の行く末は外交にありますね、今も変わらんです。

Posted by: jo | 2006.02.09 05:38 PM

見なくてもよかったようですね

 (その時)は横になって見始めてすぐに眠りに落ちたようです。
JOさんMuさんご両人の記事を拝見しますと後悔しなくてよさそうですね。
ようは大して得るものはなかったということでしょうか。

 この記事で660年~670年のころのことを記されていますね。
この間の(ほかも女史)の記事では平城京遷都1300年とありました。
645年の(大化の改新)から794年の(平安京遷都)までの150年ほどの年表を知りたくなりましたね。

 この時代も明治維新から現在までのような外国との関係が大波乱の150年だったようですからね。
違いは奈良時代の外国が朝鮮と中国だったのに対して明治以降は全世界というだけでね。

 ところでこの記事で(証拠)と(状況証拠)と使い分けておられるようですが、どういう違いがあるのでしょうか。
歴史オンチの当方などには区別がつかないのです。

Posted by: ふうてん | 2006.02.09 06:01 PM

ふうてんさん

途中で寝てしまいましたか?お酒飲んでいたんでしょう?

飛鳥、奈良時代というのは、東アジアとりわけ、中国と朝鮮半島の動乱の時代でした。日本列島もその渦に巻き込まれたのです。

朝鮮半島の人々にとり、生きるか死ぬかの問題です。野蛮で文化・文明を持たないと軽蔑されていたかも知れない日本(倭)ですが、軍事力は持っていた。

日本(倭)の国の中には朝鮮半島からの移住者が沢山存在しましたね。彼らは専門の技術力・文化をもった人々であり朝廷の戦略に色々と関わったと思います。

証拠・状況証拠は法律上のタームですが、歴史では考古学資料・文献批判に耐えた事項を証拠と私は理解しています。

状況証拠は具体的な事実では有るが、直接の証拠物件にはならないもの、と理解しています。

ふうてんさんが、言われるようにこの150年の期間は海外情勢の分析が重要です。

特に、中国が鎖国をしなかった時代は日本は常に海外情勢の変化に影響を受けました。平安時代、江戸時代は日本が鎖国したから可能だったのでは無いと思います。中国が門戸を閉ざしたから、日本は鎖国が出来たのです。

そこを、勘違いしてる人がいるかも知れませんね。

Posted by: jo | 2006.02.10 12:12 AM

なるほどねえ

 日本が鎖国したんやない、中国が鎖国したんや、と。
なんせ(万里の長城)を作った中国やからなあ。
鎖国しても不思議やないですわね。
ち~とも知らんかった。
言われて気がつきましたです。

 陸は万里の長城で国境を定義出来たけど海の国境は・・・エライことや。

 教科書問題という風なこの100年ばかりの話やなしに、ここは一つ朝鮮と中国と日本のこの2000年ばかりの(それぞれで考えている自国の歴史)ちゅうもんを照らし合わせなアカンなあ。
きっと歴史学者さんたちはやってはるのでしょうがね。

 私はだ~れ、どこから来て、どこへ行くの

という芝居好きの女人たちのセリフを思い出します。

Posted by: ふうてん | 2006.02.10 01:03 AM

国家について

国というのは、国民の生命と財産を守るものが国家であると。しかし、もっと大事なものを守る必要があるんと違うでしょうかね?

それは、文化だと思いますがね?最近の中東とか、ムハンマド事件とか、韓国の映画市場の開放問題とか・・・、そして、欧州でもテレビ番組でも輸入は厳しく制限されています。

むやみに、文明の製品は輸出しても有りがたいと感謝されど、文化の強制輸出は、相手の事を考えないとアカンと思いますね。

今の外交には少し、相手の国に対する思いやりの配慮が欠けていませんかね?

牛の輸入の話も、江戸時代は日本人は食べていなかったんですよね?明治、以降ですよね?米国や欧州のように、大昔から食べていた食文化とは異なるんやけどね。

そこらあたりの細かい配慮が・・・と、勝手に思うのですが・・・・。難しいね。

Posted by: jo | 2006.02.10 10:15 AM

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Tracked on 2006.02.09 05:13 PM

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