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三輪山セミナ(2005) その参

それでは、最後に菅野雅雄(すがの・まさお)先生の話を記録してこのセミナ報告の最後とします。

(菅野雅雄先生 簡略御紹介)
・昭和7年に岡山県にお生まれで、昭和32年国学院大学御卒業。38年同大学大学院修了。名城大学、東京理科大学、中京大学等にて教授をされ、現在、古事記学会代表理事。

(古事記成立の背景)

・古事記三巻は日本で編述した最も古い歴史書である。天武天皇の意図に従い編述され、元明天皇の5年(712年)に筆録完成・奏上された。天武天皇の史観が強く表出されている事に特色がある。

・日本書紀30巻は古事記に遅れる事8年、元正天皇の4年(720年)に舎人親王らにより筆録・奏上された。古事記をも含め多くの史書を史料として扱っている。大宝律令制定後の新しい国家建設の意識に拠って、文武天皇の頃に舎人の親王以下に編纂の命が下りたものである。

(大物主神の扱い)

古事記においては、大物主神を国作りをされた神とし、出雲の神からは切り離した。初代天皇である神武天皇の皇后はヒメ タタラ イスケ ヨリヒメ(長い名前ですね)さんですが、彼女の父は大物主神となっている。

一方で、日本書紀では彼女の父は事代主神(コトシロヌシ)と記述し、且つ、事代主神の父はオオナムチの神又の名を大物主神と記述。即ち、日本書紀は大物主神を出雲の神と認めている。

先生の説は、天武天皇の意思として天皇の皇后は神の子でなければならないというイデオロギーが存在したと主張されています。従い、古事記では大物主神はヤマト開闢の神であり、その娘だから天皇の皇后になる資格があると考えた。

(余談 大友皇子)

天武天皇は壬申の乱を起こしますが、大友皇子を認めなかった理由を卑母にあるとします。大友皇子はそういえば、伊賀采女宅子娘(やかこのいらつめ)という地位の低い立場のお母さんであり、伊賀皇子と呼ばれていました。

天武さんは天皇の皇后資格については原則を持っておられたようです。そういえば、壬申の乱で大活躍をした高市皇子も不遇でしたね、その子供である長屋王は父の無念をよく存じていたようです。だから、藤原氏が強引に聖武天皇の皇后に光明子を推進した時に反対し、逆に滅ぼされ可哀想な歴史があります。

注:高市皇子 天武第一皇子であるが母が、胸形君徳善の女、尼子娘であり卑母である。第1皇子でありながら身分は10人中8番目であった。壬申の乱では大活躍をした。

(日本書紀の立場)

書紀では大国主神、又の名を、大物主神、又の名を国作大己貴命(おおなむちのみこと)、又の名を、葦原醜男(あしはらしこお)、又の名を八千ホコ神、またの名は大国玉神、又の名は顕国玉神である。沢山の名前を持つ神さんなのだ。子供は181神おられ少彦名命とちからを合わせて国をつくられたのである。

(後代への影響)

第一代皇后を皇后の規範とする。養老令、後宮職員令では 妃は2名 四品以上(しほん) と規定が出来た。
その後、藤原不比等がなしくずしにする。

(講演感想)

天武天皇は日本史のなかでも、豪族連合に擁立されたヤマトの大王の国家体制から大王を中心とする新しい国作りを目指された人であると、私も認識していました。天皇という称号も天武さんの時代からだと、認識しています。

しかし、改めて三輪山の大物主神の偉大さは、記紀ともに認めるところであります。

過去記事 古代幻想 目次編

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Comments

なんとなく、うまく話せないのですが。

 天武天皇の意思にそって記紀が誕生したというのは、内容もそうだという風に読めましたが、最近、不比等がどうした、天皇家の歪曲があった、とかいう前に、いつものMu説ですが「社史」と考えると、記紀とはそういうものであると、ふにおちて、当時、歴史をそうみたのだから、そうなんだと、記紀を丸呑みしだしたのです。

 Joさんの解説に水をさすわけじゃないのですが、もやもやとする感情は、戦後すぐの歴史観への大きな反発ですね。
 いや、この先生がそうだとは、全くもうしておりません。記紀となると、MUが勝手に自動反応するのです。

 この先生のことじゃなくて、一般論として、素直じゃない研究者が9割おるのじゃなかろうかと、思うのです。強烈な史観教条そのままに世界を歴史を見る方がおおくて、ちょっとそういう世界から一歩離れてみると、なんとなく滑稽に見えてしまう。

 だから、なかなか、記紀と聞くと、Muも異様な繊細な反応をしめしてしまようで、客観的になれないのですよね(笑)。

 つまり。社史を読んで「うそばっかりや」と、人が血相変えて言う。そばのMuは「あんさん、何を子供っぽいこというてはるのや。社史ちゅうもんは、そういうもんやし、その会社はそういう風に、社の歴史を見たい、そういう気持のあらわれですがな」と、言ってしまう。

 だから現今の朝鮮や中国の史観も、日本をそういう風にみたいのや、と納得しかかっておるんです。もちろん、Muは全く違った目で見ております。

 さて。いろいろご託ならべましたが。
 天武さん、よう分からないところがあります。一応お母さんは斉明(皇極)女帝なんでしょうね。天智さんの弟。
 でも、突然出現ですよね。645事件の時は、どこにおられたのやら。幼児期も、父母とも、わからんようになってしまう。
 うむ。それに、大友さんは、天皇と後日されたんですかな。

 というわけで、せっかくのJo古代話に、今日はなんとなく、僻事かいてすみません。
 要するに、記紀とくると、反応してしまう、その説明です。

Posted by: Mu | 2005.08.31 08:56 PM

初歩的な質問ですが

 古事記、日本書紀の現物は今は勿論残っていないのでしょう?
そうすると写本があったのですかねえ。
写本となるとオリジナルとは異なる訳で、不用意な誤転写や意図的な誤転写もあるのでしょう。

 JOさんでもよろしいですし、Muさんでもよろしいですが、古事記や日本書紀の原本とその後の経緯といいますか、変遷といいますか、どのようにして今の形(?)になったかを教えていただけないでしょうか。
あるいは今の形というのもなくて、江戸時代のいつごろはこれが原本に一番近いと言われていた、それもA系統、B系統、C系統などの数種類ある、でもよろしいです。

 学者さんの解釈以前に、原典がどのようなものであるのかを知りたいのです。
万葉仮名、つまり漢字だけだとは想像しておりますが、今の学者さんは一体どういうテキストを元に議論をしているのかを知りたいのです。
梅原猛の(古事記現代語訳)を読みましたが、訳者として彼は、実は意味不明な言葉が結構あり、私は一部分アイヌ語からの連想で意味を解釈した、とあとがきに書いています。

 歴史音痴の当方がいつも戸惑うのは、JOvsMuの歴史談義で、よく出てくる人物や土地などなどが、一体どこに書かれているネタをもとに議論されているのか掴みようがないことです。

 あまりに初歩的な質問ですが、是非よろしくお願いします。
それは面倒くさいから、参考にこれを見ろとか、Googleに~というキーワードで聴け、でもよろしいです。

Posted by: ふうてん | 2005.09.01 12:03 AM

Muの旦那

今回の古事記の大家であられる、菅野先生の話は具体的に古事記の中身に関する講演は殆どありませんでした。神武天皇さまの皇后の分析が殆どであり、多くの時間を割いて戦後教育での日本の歴史教育に関わるお話でした。

かの大戦以降、戦後生まれの私も学校で古事記だ日本書紀について教育をうけた経験は有りません。占領軍の政策もあったのかも知れない。

そして、戦後の歴史学者の多くは古事記・日本書紀は事実を記述していない、史料批判以前の風潮があったのも事実ですね。

しかし、最近になり考古学者が発掘により学問的な成果を著しくあげるようになりました。勿論科学者の協力があったからですね。

考古学者の森先生が最近はむしろ、考古学からみた日本書紀という本迄お書きになりました。どうも、嘘の塊ではない、何か時代背景を記述していると分析されています。

私は、歴史学より考古学の方が興味が強いですが、やはり、文献で残された日本の悠久の叙事詩である古事記・日本書紀には歳をとるにつれ興味が湧いてくるのですね。

史観についてですが、私はイデオロギーを排除します。色眼鏡で歴史をみるのは好きではありませんね。

古代においては、大事な歴史は口伝であったと考えています。その専門家の家が存在したでしょうね。卜部家なのはその伝統を引き継いでおられるのではないでしょうか。

歴史を編纂するのは命がけだったでしょうね、中国における歴史書のあり方は日本にも伝わっていたと思います。

趣味として古代史を続けていますが、何時までたっても尽きない楽しい世界です。

Posted by: jo | 2005.09.01 10:47 AM

ふうてん老師どの

そういえば、写本ですね。当時のオリジナルは存在しませんね。印刷機の無い時代ですから、奏上するにしても何冊も書き写して奏上したのでしょうか?

今まで、科学者ふうてん老師のように真面目に現存本の調査をしたことは有りませんでした。身近な、岩波の文庫本とか解説本とかを読んでいましたね。現本は多分国宝だろうから何処の博物館か神社にあるやろうと思うてました。

大学の文学部で上代史を学ばれた方々なら、常識の世界かも知れませんね。古事記は名古屋にあるお寺、真福寺宝生院にあるそうですよ。南北朝の頃の写本だそうです。

日本書紀は平安初期に写本されたものとか、仰山残っているそうですよ。殆ど国宝やそうですが、奈良国立博物館の原本が一番古い写本とちゃうかな?

奈良時代から古事記、日本書紀の分析はされてたそうですね、南北朝の頃も盛んに分析されたそうで、江戸時代の本居宣長さんは古事記研究で名高いですね。

しかし、残念なのは大化改新の時に蘇我家滅亡とともに、太子さんが編纂された天皇紀、国記が消滅した事ですね。

少しは、持ち出したという話も有りますが、残念です。

古事記・日本書紀の現本の履歴を勉強しますかね?最近は、国立国会図書館のネットで検索が出来るようですね。

Posted by: jo | 2005.09.01 11:12 AM

そうですか

 写本がいろいろあって、それの解釈も時代により、人によりいろいろあって・・・・。
約1300年ほどたっとりますからね。
確か、白川静先輩や大野晋先輩たちも、記紀だったか万葉集だったかを正確に読み取りたい、というのが、日本語や漢字への興味の出発点だった風なことを書かれていたように思います。
あと大物としては源氏物語がありますね。
これだって300年ほど新しいけど、現物はないようだし、作者や構成についても緒論あるようです。

 そういうモワモワとした世界に踏み込むと、ああでもあろうか、こうでもあろうかと、地下鉄漫才みたいに夜も眠れんようになるでしょうなあ。
そういうところが(歴史好き、古代史好き、考古学好き)のみなさんにはこたえられんのでっしゃろ。
想像は出来ます。

 当方などの理解力では区別もなにもつきませんが、梅原猛先輩や大野晋先輩に言わせると、古事記の一部や万葉集の一部や源氏物語の一部は、文学作品として最高のものの一つであると強調されていますね。
謎解きは苦手ですが、せめてそういう(文学作品)としてのエッセンスを味わえるようにはなりたいと思うております。

 JOさんやMuさん、それぞれに楽しみ方があるように、当方も少しは楽しまないと損なような気もしますでな。
(文学)として味わうことにいたしましょう。
(人間の諸相)を楽しむことにしましょう。

Posted by: ふうてん | 2005.09.01 01:47 PM

ふうてん老師どの

日本の宝である古事記、日本書紀、源氏物語、古今和歌集、土佐日記、方丈記、更級日記、あまたの書物が写本され今まで残ったのは奇跡ですね。

写本というのは、私が大学時代に友人の講義ノートを写すの訳が違います。印刷機の無い時代ですから、一字一句真剣に写したと確信しております。

写経というのは、同じく現在では紙のしたに原本を敷き文字通り写す訳ですが、一字の間違いも許されない世界なんでしょうね。

歴史学者はあまたの写本を文献批判で調べられるわけですが、奈良・平安時代から学者が研究して来た訳です。

しかし、あくまで文献に書かれた事でありますから、事実かどうか判りません。そこで、考古学という学問領域では発掘による現物で歴史書と比較検討するわけです。

1990年代だと思いますが、奈良で太安万呂の墓誌が発掘された考古学の大成果がありましたが、これで古事記の存在は物でも傍証されたわけですね。

古事記だ日本書紀というのは、歴史書ですが、私にはヤマトの国の叙事詩であります。そんな楽しみ方をしている訳です。

残念ながら、戦後生まれの私は中学時代、高校時代に学校では教えて貰えませんでしたね。何処の国に我が祖国の歴史書を教えない国があるんでしょうかね?

不思議な国であると今でも思います。

Posted by: jo | 2005.09.01 07:27 PM

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