三輪山セミナ(2005) その弐
西宮 一民(にしみや かずたみ)先生の話の続きです。
(3)ヤマトの王宮
第12代景行天皇までの王宮の場所ですが、神武天皇より第9代開化天皇までの期間はヤマト西南部である、橿原、御所、大和高田、等の所謂、秋津洲ヤマトの地であった。それが、第10代崇神天皇から12代景行天皇の王宮の場所はヤマト東南部である、桜井市の三輪山の麓であるマキムクに移った。所謂、磯城島のヤマトである。
ヤマトの枕詞には秋津洲(あきつしま)と磯城島(しきしま)という二種類があるが、これは”葛城のむろの秋津洲宮(孝安天皇宮)”であり、”磯城の瑞垣宮(崇神天皇宮)”に由来がある。枕詞の由来はこの時代を映している。
(4)崇神天皇は何故三輪山山麓に宮を開いたか
先生はその理由を三輪山の祭祀と深い関係があると言われる。長谷川とマキムク川に囲まれた聖なる瑞垣の宮であった。日本書紀の崇神紀には恐ろしい話が語られている事を多分、御存知かと思う。
国内に疾疫が流行し半数の民が死んだ。(崇神5年) そこで、天照大神とヤマト大国魂の2神を天皇の大殿で祀る。(崇神6年)しかし、疫病はおさまらない。次に、打った手は天照大神をヤマトの笠縫邑に祭り豊鍬入姫命に祭祀をさせた。これはうまく行くが、問題はヤマト大国魂神を淳名城入姫命(ぬなきいりびめ)に祭らすが、髪は抜け落ちやせ細り祭祀を失敗する。
そこで、崇神天皇は三輪山麓にヤマトの80万の神々を集め失敗の理由を占うと、神がヤマトトトヒモモソヒメ(百襲姫)に憑依して曰く、私は大物主神だと名乗ったのだ。そこで、賢者に聞き、大物主神の子孫である大阪は堺に住んでいた(茅ヌ県の陶邑)大田田根子(オオタタネコ)に祭祀を任すと疫病は終息し、五穀も稔り、民は安住した。
この話はヤマトを切り開いた国の魂である大物主神を祭祀できるのは子孫しか出来ないという、祭祀権をいい、天照系の天孫族の後裔である天皇家では祭祀が出来ない事を述べている。
(4)大神神社の神は何故”ミワ”と訓むのか?
正確を喫する為に先生の言葉を引用します。
”その謎を解くには、ミワという日本語をよく知る事である。漢字”神”の意味は”人間に対して猛威を振るい、恐怖を覚える存在を言う”。殆どは人の目には見えないが、祟りをしたり、憑依し託宣をすることによって、カミたることの存在を知らしめたりするが、中には目に見える”雷””狼””虎””蛇”の如きカミがある。
三輪の神は”大物主神”でモノ(魔物)の神の偉大なる主の神であるが、その正体は”蛇”だとの説話が多い。そして今まで、資料で見てきたように、漢字”神”の意味を十分に持っているモノ神であるが、その上に”三輪の大神”は(大和成す大物主の神・・・崇神紀歌謡15番 ヤマトの国を切り開かれた神であるという意味)である。
この点が、従来”神といえば三輪の大神”といわれる所以であるという事が理解できよう。”
(講演感想)
・先生は関西人独特の漫才風の面白い語り口で聞いていて退屈させない、話の上手なお方である。御専門は上代語学・文学であり古代史の話に奥行きと幅広さを感じますね。そして、学問の領域は日夜進化するので、自分の説でも間違いとか古くなると直ぐに、改める素直さをお持ちのようですね。
・欠史9代と言うて、世間の学者は神武天皇より開化天皇迄を史実として、認めない風潮がありますが、先生は認めるお立場なんでしょうね。しかし、10代崇神天皇以前と以降は王朝が異なる程変化がありますよね。人によれば9代までを葛城王朝と呼び(王宮の場所が南西部の秋津洲による)、崇神天皇以降を三輪王朝と呼ぶ学者さんもおられます。(第15代応神天皇より河内王朝となる)
・ヤマトの語源については大変に興味が湧きました。面白い発想であると思います。これは、新説ですよ。
・私は崇神天皇は全く新しい系譜の大王ではないかと考えています。ミマキイリヒコイニエと長い名前ですが、イリ彦ですから侵入者ではないでしょうか?
・マキムク、三輪山麓を語る時に邪馬台国と卑弥呼を語れねばならない。しかし、記紀は沈黙している。最新の考古学の発掘成果と研究の進化により、マキムクの巨大前方後円墳の年代が解き明かされ始めた。ヤマト朝廷と前方後円墳の関係は密接である。2世紀末から3世紀中葉に活躍した卑弥呼女王と、記紀が語るヤマト朝廷の関係である。
・私は現在以下のように考えています。
女王卑弥呼は記紀の記述でいうヤマトトトヒモモソヒメであると確信している。そして、お墓は箸墓古墳である。
記紀において、崇神天皇に対して神のお告げをあまたする記事がでてきます。卑弥呼を支える弟王が崇神天皇ではないでしょうか。
過去、卑弥呼と箸墓は年代が合わないと、退けられていましたが、年輪年代法の成果により、マキムクの古墳の年代が100年ほど遡るという説が説得力を持ち始めました。卑弥呼の死、248年に箸墓古墳は近ずいたのです。
このように考えると、何故、崇神天皇がマキムクで王朝を開いたのか、判りやすいのではないでしょうか?卑弥呼の邪馬台国が存在したからではないでしょうか。
それでは、神武天皇から開化天皇迄の9代の秋津洲ヤマト王朝はどう考えるか?それについては、まだ私は判りません。ただ、考古学による発掘成果をあまり聴かないのですね。
(尚、三輪山、ヒミコに関する記事はMuBlogに豊富(笑)にあります参照して下さい)
例えば三輪山伝承
まほろばの歌が聞える
沢山、沢山記事があります・・・。
追加疑問記事
・祭祀権の話であるが、三輪明神大神神社の件は理解できたが、それでは出雲大社はどうなんだろうか?
確か、天穂日命が祭祀をして子孫が、出雲の国造として出雲大社の祭祀をされている筈である。これは、天孫族であり出雲系では無い。ハテ?
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Comments
熟睡寸前ですが、
お答えしましょう。
なんて、答えがでたら余生の楽しみが吹っ飛ぶ。
(笑1)
神武さんから、開化さんまでですよね。これはですね。その間、三輪山をニギハヤヒ系物部さんたちが巨大強力な結界をしいて、寄せ付けなかったんですよ。だから、息ができるまでじっと橿原や葛城の山ん中あたりに逼塞していたと考えれば、よろしい。
つまり、継体さんと似ていないことはない。なかなか、三輪山に近寄れなかった。(もっとも、継体さんは、Joさんの地元あたりのほうが、ええ、と思っておられたのが真相でしょうな)
(笑2)
「出雲の国造」はんが天孫族系なんはあたりまえ、お目付ですがな。そもそも素戔嗚尊が出雲の本源。その子孫がニギハヤヒさんで、はやばやと国のまほろばヤマトを占拠なさってしもうてな。
これは、明治天皇さんが、京都本源やのに、江戸へ行ったんと同じ。で、神さんは複製可能で、お移りになっても本家は大事。それで京都は格別に「府」ですがな。
そやから戦前の京都府知事は、明治政府から堅く内命をうけた「お目付」として、京都をみはっておった。いわば、明治政府族なのに京都を見張り、そのうち、同化(笑)してしもた。
そういうこってす、話の真相。
(笑*)
もう、ねむたいし。また、後日。
日巫女はんのことは、日本史を書き換えるおそれがあるので不用意にもうせませんのや。
Posted by: Mu | 2005.08.29 10:23 PM
Muの旦那
MuBlogが16万アクセスを実現されたそうでんな?おめでとうさんです。
しかし、内容が地味なのに誰が読んではるんでしょうか?世の中、地味な話が好きな人が仰山おられるという、証拠ですかな?(笑)
さて(笑1)
・私も実はそのように考えていて、記事にする積りでしたが、独断すぎるか?と思いまして止めました。
・最初にヤマトに入り王権を建設したのは、私の故郷である交野の磐船神社に降臨されたニギハヤヒさんでしょうね。若狭から琵琶湖経由か、瀬戸内海の淀川ルートか判明しないけど、ね。
・三輪山、マキムクには縄文、弥生の頃から古く人々は住んでおられたようですね。崇神さん、ヒミコはんの三輪王朝は物部王朝と呼んでもいいかもしれませんね。
それから(笑2)
出雲大社の御柱の配置ですが、奇妙だそうですね?以前読んだ本の名前も忘れたけど、参拝客が拝む正面はスサノオさんとちゃうらしいな?
横むいたはるそうな。天孫族を拝む形式らしいですね。
また、元気でたらよろしょうにね。(笑)
Posted by: jo | 2005.08.30 08:05 AM
ほかはおくとして、でんなぁ。
そりゃ地味MuBlogを読むひとなんて、限定5人ですよ。5人でせっせと16万アクセスするんですから、まあ、ものすごい話やおまへんか。
その筆頭がJoさん、ふうてん爺さん、つまり「風雪梅安一家」やから、世話ないよね(笑)
まあね。blogとは、そうであってよいと、おもっとります。
Posted by: Mu | 2005.08.30 08:25 AM
Muの旦那 ご謙遜されんでも、よろしいで。
一年半で16万アクセスは立派ですよ。しかも、最近は大学の公務までが多忙になられておられるのにね。
風雪梅安一家としては、生きてる限り応援しますよ。末永く元気であらしゃる事をお祈りします。
Posted by: jo | 2005.08.30 12:23 PM