蘇我蝦夷 入鹿の墓
”落日の王子 蘇我入鹿” 黒岩重吾 を読んだ。
激動の国際情勢の中で日本をどうするか?鎌足と入鹿は手法は異なれ、強力な中央集権国家を目指した事に変わりは無い。入鹿は蘇我氏が皇帝となり、強力な権力の集中を図ろうとした、鎌足は大王家を中心に権力の集中を図ろうとした。と、黒岩さんは言う。
入鹿のモデルは高句麗の泉蓋蘇文であり、クーデターにより高句麗大王を殺害し、傀儡の大王をたてて自ら実権を握り唐帝国と戦おうとしたやり方である。黒岩さんの論法に無理は無い。
唐帝国は新羅と結び、高句麗と百済を攻める国際情勢である。いずれ、日本に唐帝国は攻めて来る、早く中央集権国家を作らねば、日本は滅亡すると、多くの、唐からの留学者は飛鳥で説いた。
何か、現在の国際情勢も似てませんか?現在では朝鮮半島の問題は朝鮮半島の人々のあいだで解決してもらえば、宜しいが、当時の飛鳥時代の日本は蘇我氏が百済王族の末裔という意識が有りましたし、任那という土地はその時は既に滅んでいたが、未だ同族という意識が残り、朝鮮半島の問題は今以上に骨肉の問題であったでしょうね。(joの意見)
聖徳太子と山背大兄皇子の仏教の平等主義は当時の緊迫した国際情勢では、現実から浮いていたというのが、黒岩さんの説明です。大勢が強力な中央集権国家に向かっていた、だから、山背大兄皇子は孤立したと。
さて、ここで取り上げておきたい話題は蘇我蝦夷と入鹿の墓の問題です。
黒岩さんの説は現在、欽明天皇陵とされている、桧隈の植山古墳がそうであるという説です。幕末の時代迄は実は前方後円墳ではなくて、双円墳であったそうだ。円墳が二個存在したそうだ。それを、幕末に前方後円墳に作り直したと言う。
欽明天皇陵は北600メートルにある巨大古墳直径300メートルの見瀬丸山古墳であると言う。確かに、現在、考古学者では例えば森浩一先生はこの説である。1991年5月に偶然に石室に入り二つの石棺を撮影した家型石棺の形態分析により6世紀後半と7世紀前半の石棺と判定されている。(欽明天皇と堅塩媛の合葬)
黒岩さんの話では、上宮王家(斑鳩の王家)の関東の乳部の民を徴発し蝦夷と入鹿の双円墳を作らせたそうだ。
これが、決定的な山背大兄皇子と入鹿の対立になったと言う。
現、欽明天皇陵が蝦夷、入鹿の墓であるという学会の定説はないようですが、少なくとも、見瀬丸山古墳は欽明天皇陵ではないか?現行の、植山古墳は双円墳で幕末まではそうであったという事は事実であるようだ。
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