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磐之媛 民間第一号皇后

磐之媛さんは仁徳天皇さまの皇后で皇族ではない民間(葛城曾都比古、襲津彦、そつひこ)の娘です。記紀ではヤキモチ焼きのプライドの高い女性として数多くのエピソードが記述されているが、謎が多い。

今日は、ほかもさんが磐之媛の古墳のお傍にご在住で、且つ、記事を書かれましたので、この際、私の疑問とか謎とか意見をまとめました。又、関連して私も過去に恋敵のお兄さん宇治天皇(兔道稚郎子うじのわけいらっこ)について、記事を書き、MuBlogでも記事が御座います。

和邇氏関連は”心の故郷北河内 目次篇”参照

(疑問と謎の数々)

 何故に嫉妬深く磐之媛は記紀に書かれたのか?

皇族でもない磐之媛が皇后として存続するのを阻もうとしたのは、八田皇女(宇治稚郎子の妹)で最大の敵であった。仁徳天皇は応神天皇が身罷れたあと、皇太子であった(天皇であったという説、宇治王朝説、)宇治稚郎子を
自殺に追い込み王権に就いた。兄弟同士の戦いでした。

応神天皇は宇治の木幡に住む和邇氏の母を持つ稚郎子と同母妹の八田皇女を愛したそうです。だから、皇太子にして、後継ぎに指名したわけです。しかし、兄貴のオオササギ(仁徳)は彼を自殺に追い込んだ。

稚郎子の廻りには渡来系の学者が多く、アチキ(阿直伎)から儒教を学び和邇(王仁)吉師から皆さんも中学か高校の歴史で学ばれた、有名な”千字文”を直接教授された。当時の南山城から私の故郷の北河内の木津川、淀川、宇治川のハイウエイの十字路は巨大な勢力と大陸の先進文化の華が咲き誇っていたのです。

オオササギ(仁徳)さんは難波が拠点、大和川水系と大和を支配していた葛城氏(ソツヒコ)と連合し宇治の政敵を倒したわけです。だから、磐之媛が皇后に納まれた訳ですね。しかし、政敵打倒後に和邇氏の猛反撃に遭遇したと想定されます。

和邇氏(王仁)は渡来系ですが、神功皇后の出身の息長氏も和邇氏側につき日本海から琵琶湖経由、で瀬戸内海ルートの仁徳政権に対峙したと、私は予想します。元々は宇治、木幡、は息長氏の拠点でした。

私は、磐之媛は紀伊から熊野灘迄、遠征し水軍を率いオオササギ(仁徳)天皇を助太刀する行動にでたと思います。難波、大和勢力に紀伊、熊野水軍を味方にオオササギ、磐之媛連合は宇治王朝を支える豪族、水軍連合と全面戦う局面を創りだした。

しかし、旦那のオオササギは宇治の豪族連合と話し合い、稚郎子の妹の八田皇女を皇后に迎える条件で全面戦争を回避したと思います。皇族ですし、和邇氏、息長氏、山城、日本海連合豪族は休戦に合意した。

(磐之媛の戦い)

磐之媛には男の子供だけで4人も既に存在したのですね。何としても皇后の位を譲る訳にには行かない、又、地盤勢力の葛城氏を守る事も重要である。磐之媛は私の故郷の近くの筒城宮に水軍を率いて駐屯し、木津川と宇治川の敵の勢力拠点に睨みをきかせた。(当時、筒城は朝鮮半島の移住者が住み朝鮮半島担当の葛城氏には友好的な韓人が多く居た。彼女はヌリノミ(奴理能美)の館に布陣した。)

彼女は最後まで駐屯地を動かず、和邇氏と息長氏、八田皇女を牽制し、駐屯後、4年ほどして亡くなる。遂に、生きてる間は皇后を譲らず、彼女の死後、八田皇女は皇后になった。しかし、オオササギとの間には皇位継承をねらう子供は存在しなかった。(考古学の森先生は何らかの手段でそのように誰かがさえたのでは?と言う)

磐之媛は死後、自分の故郷である葛城ではなく、政敵、和邇氏の拠点である大和北部の乃羅山(ならのやま)に葬られた。

遂に、三人の息子はその後、履中天皇、反正天皇、允恭天皇となり河内王朝の繁栄を築くのである。そして、雄略天皇が出現するまでは葛城氏から天皇家に嫁を出す大勢力となり、磐之媛の戦いは報われたのです。

(母は強し、政子も強し)

しかし、当時の女性は強かったんですね、神功皇后も凄いけれど、民間人から皇室に入り、軍まで組織して戦う。わが息子達の行く末と葛城氏の安寧を願い戦ったんですね。何か、現在放映中のNHKの大河ドラマの北条政子はんみたいですね。

気になる事として、考古学の森浩一先生は応神天皇と仁徳天皇はじつは同一人物ではないか?
一人の歴史をニ分割した形跡が多く疑いがあると言われています。最大の理由は応神天皇の陵、お墓ですね
その記述が記紀に存在しないそうです。これが、奇妙であると。

葛城氏はその後、ワカタケル大王(雄略天皇)が王権の強化を狙い葛城氏を攻め滅ぼし、連合の吉備の豪族も攻め滅ぼしました。しかし、専制の王権は長く続かずに武烈天皇のあと応神天皇から創始された河内王朝は滅び、息長氏、和邇氏が政権基盤の継体天皇が越の国、若狭湾から琵琶湖、宇治川、木津川、淀川を制圧し樟葉の宮で即位しました、そして磐之媛が駐屯した筒城宮に政権を樹立したのです。

悲しい、宇治稚郎子(宇治天皇)を鎮魂するために、実は”源氏物語 宇治十帖”が書かれたと言います。モデルは稚郎子だそうです。人々の記憶に平安時代まで残っており、語り継がれた悲劇の皇子(天皇)だったんですね。


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Comments

Joさん

正直、僕には少し、難しいです。
いままで 余り縁の無い世界でした。
でも勉強になりますね。
きっかけは 大切だと思います。
葛城氏は、葛城山付近に居た集団ですか?

僕の父の故郷、大和五條の 栄山寺には、
法隆寺の夢殿と同じ八角形の建物があります。

Posted by: Ys | 2005.06.03 10:43 PM

Ysさん

葛城氏は大和と南河内を支配していた、古い豪族です。生駒にも
拠点があったようで、神武さんが大和に入っても、葛城氏から嫁を貰わないと政権が維持できない程、地元の実力豪族であったようです。

ある説では、葛城王朝が存在したと言う程、強大だったようですね。磐之媛の活躍で再度、河内王朝の時代には栄えますが、ワカタケル大王(雄略天皇)に滅ぼされます。

しかし、その後、当時不毛の湿地帯である、京都盆地に入植し土木事業にて河川を整備し、桓武天皇を迎える迄にリベンジをしたようですね。

桂川は元々は葛城川(カツラギ)がなまり、カツラとなったようです。従い、長い日本の歴史であるときは栄え、又、復活するという奥の深い氏族の闘いの歴史なんですね。

栄山寺は未だ、訪れたことが有りません、八角形ですか?中国の思想ですね、宇宙を表現していますね。興味有ります。

Posted by: jo | 2005.06.04 06:36 PM

そうなんですか。
よく分りました。桂川のはなしは、全く知りませんでしたね。
葛野の地名の由来も、そのへんにあるんですね。

Posted by: Ys | 2005.06.04 07:02 PM

Joさん、お話のすじは分かりました。けれど、いくつか疑問、質問、反論がわきました。

1.「森浩一先生は応神天皇と仁徳天皇はじつは同一人物ではないか?」この典拠を教えてください。
 Muは、日本書紀や古事記を基本的に信用する立場なので、トンデモ話は大好きですが、神武と崇神とは、一柱を二つにかき分けたとか、神武天皇は実在しないとか、上記、応神と仁徳が同一人物だとかは、よほど証拠がないと承服できません。
 つまり。書き分ける理由が確としているなら、正史や社史の通例、嘘も方便もあると納得するのですが、それが史官達の「誇大長大威厳付け」程度なら、うなずけない。

2.イワノヒメさんが軍船をしたてて、仁徳さんとは別行動で軍を動かしたとのことですが、それが何故「嫉妬話」に転化したのか、このあたりの事情が分からない。皇后が実家の援助のもとに軍したということは、場合によっては反乱なのかもしれない。難しいトンデモ話になったので、検証がたしかならこれほどおもしろいことはないが、ちと眉唾。

3.「しかし、旦那のオオササギは宇治の豪族連合と話し合い、稚郎子の妹の八田皇女を皇后に迎える条件で全面戦争を回避したと思います。」
 このスジはよく理解できるのですが、宇治王朝がそれほど強大だったことの検証がほしいです。つまり、この時点では、なによりも宇治稚郎子は自殺していたのですね。旗頭なしで反抗があったというのが、わかりにくいです。

4.「和邇氏(王仁)は渡来系」というが、渡来系は急速に地盤を造り、軍を起こすほどの力を持っていたのでしょうか。つまり、JOさんがよくいわれる「渡来系」が如何にして軍を起こすまで成長したのか。そこがわかりにくいのです。
 渡来系が技術や文化を持ち込んだというのは、比較的わかるのですが。異境で軍を起こすとは、並大抵のことでは成らぬことと推測します。

5.桂川が葛城のナマリというのは、すっきりはっきり分かりますが、この推測典拠がしりたいです。

Posted by: Mu | 2005.06.04 10:57 PM

Mさん こんばんわ?

御身体は大丈夫ですか?季節は梅雨に入ったような、曇天に雨が続いています。おまけに、地震までありまして爽快にはなれない、毎日です。

ご質問と疑問の点ですが、後日にゆっくりと記事として書いてゆきますので、色々とアドバイスとご批判下さい。

やはり、宇治が絡むとMuさんはマジになられますね。これからも、御一緒に掘り下げてゆきましょう。

宇治、木幡から筒城、田辺、樟葉、あたりの南山城は、崇神さんと大戦争をしたタケハニヤスが存在、そして応神さんの時に明石、宇治川で戦争したオシクマ王、仁徳さんの時の稚郎子皇太子(天皇)とどうも、大和と難波に対抗する大きな勢力が存在したと考えられます。

応神さんと仁徳さんの同一説は森先生が詳細に説明された資料があります。彼がこの説かどうかは不明ですが、(考古学者なので)後ほど引用させていただきます。

磐之媛の軍事行動については、記紀では具体的に記述は有りませんが、紀伊から熊野まで神事用の柏葉(御綱葉)を採集に行く記述があります。神武さんの皇統の正当性を受け継ぐためですね、これは、仁徳さんにとり危機的状況が存在したと、想定してもおかしくは有りませんね。

私は今でも残るという宇治での奇祭で稚郎子が暗殺された故事を再現する奇祭が気になっています。本当に自殺したのかどうかは、疑わしいですね。

当時の武力闘争ですが、ハイテクを持つものが勝利したと考えます。これは、今でも同じですね、人数だけいても勝てない、鉄と武具と準構造船の技術でしょうね。

ま、休載後にゆっくり記事を書いてゆきますので、宜しくご教授ください。楽しみです。


Posted by: jo | 2005.06.05 12:09 AM

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