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Jo君の歴史彷徨(4)

それでは縄文時代について考えてみましょう。今から2万2千年前に最後の氷河期に入り日本列島はユーラシアと陸続きになりました。そして樺太からはマンモスとか大型の哺乳類を追いかける人々が南下した。これが、約1万年続いたわけです。

今から1万2千年前の頃から氷河期は終息し、間氷期にはいりました。そして、日本列島は海面上昇の為に大陸からは切り離されたわけです。この1万2千年前からその後の1万年、そうですね、紀元前3百年の頃の長きに渡る期間を縄文時代と呼んでいます。

名前の命名は土器の形態から付けられたようです、製作プロセスで縄を押し付けて空気を抜いた。10センチ程度の縄の紐を土器に押し付けて製作した。岡本太郎画伯が日本で始めて、縄文土器の美しさを認め、あの火焔土器のイメージに傾倒し、彼の作品に根本的に影響を与えたと聞いています。

この数年前までの常識が最近の発掘成果と科学技術の進歩により、縄文世界が根本から覆りました。その大きな事件は三つ有ります。

三内丸山遺跡の発掘)

約5千年前からの遺跡ですが、栗の栽培をしていた事実です。これは、DNA分析で判明しました、野生の植物とか木の実を採取していただけではないのですね。農耕が始まっていたのです。

縄文人が海洋航海民である証拠が沢山発掘されましたね。糸魚川で採掘されたヒスイと高度な加工技術、岩手県から運んだ琥珀、北海道は十勝、秋田県の男鹿、山形県は月山、佐渡、長野県霧が峰等々から運んだ黒曜石です。これは、鏃とか小刀、槍等々の石器として加工された。

そして、漆です。赤漆が塗られた木製皿も出土し、漆の技術が既に開発されていたんです。同じ縄文遺跡である若狭の鳥浜遺跡からは、漆とともにエゴマの実が発掘され、漆の混和材として必要なエゴマ油を既に使用していた事が判り、漆は中国よりも古い事が判明しました。

そして、巨大な掘立柱の建造物の痕跡です。

(巨木文化)

三内丸山遺跡だけではなく、日本海沿岸の縄文遺跡、新潟県青海町の寺地遺跡、石川県金沢市のチカモリ遺跡、能都町の真脇遺跡等々ではクリの巨木の柱が発掘されている。近くの森から切り出したのではなく、木の端に穴を穿ち(目処穴)ロープで縛るか修羅で運ぶかしたんでしょうね。

そうそう、このロープの技術ですが、縄ですね。偶然に縄文という縄の時代と命名されたが、縄が航海では一番重要な基礎技術だそうです。縄と土器が無ければ航海は出来ないそうです。遥か海原を航海するには、この二つが最重要技術だそうです。(神社の注連縄は蛇信仰で2匹の蛇が巻き付いて豊穣祈願と思うが、ひょっとすると縄文時代の海洋民の記憶かもしれませんね)

巨木掘立柱の技術は日本海沿岸では受け継がれ、遂に時代は異なるが出雲の32丈の出雲大社建設となるのですね。

(稲作は始まっていた)

弥生時代の代名詞である稲作が既に縄文時代に始まっていた。これは、衝撃の歴史を塗り替える、抜本的に歴史を見直す事件となりました。

岡山県の朝寝鼻貝塚遺跡にて6000年前のプラントオパールが検出されました。稲の細胞ですね。この稲の問題については弥生時代で詳しく記事にする予定ですが、最近の稲のDNA分析が進歩し、特に、静岡大学の佐藤洋一郎先生が次々と衝撃的な稲の伝播に関わる報告をされている。

同じく、水田跡も縄文遺跡から発掘され、例えば、佐賀県唐津市の菜畑遺跡があります、縄文晩期の遺跡ですね。稲作については、今後今までの常識が覆る可能性が多いです。国立歴史民族博物館は弥生時代の開始を紀元前10世紀にしましょうと提案している。これは、縄文晩期である。

さて、話は逸れますが、佐藤先生の話では野生の稲の発祥地であり、栽培の発祥地は長江下流域、カボト遺跡であると発言している。従来の説はアッサム地方から雲南と言われていた。カボト遺跡からは7000年前の炭化米や稲作の道具が発掘・分析されたそうだ。

日本への稲の伝播ルートについても新発見が相次いでいます。大阪 池上曽根遺跡、奈良唐古鍵遺跡の2200年前の弥生米をDNA分析すると朝鮮半島には存在しない稲の種類(DNA)が発見され中国から直接に日本に伝播した証拠が見つかった。勿論、朝鮮半島経由の稲も存在した。

(縄文海進とノアの箱舟)

6000年前に最大に気温が上昇し、日本では今よりプラス2度上昇し、海面は4メータ上昇したそうだ。だから、三内丸山遺跡の人々も今は山の上のような場所に見えるが、近くまで海岸線が寄せていたんでしょうね。この気候変動は地球的に起こっていますので、世界中で気象異常というか海進異変が発生した。

メソポタミア、黒海、あらゆる場所が洪水に遭遇したと想定されますので、旧約聖書のノアの洪水の記憶もこの時の可能性も有りますね。そして、気温が2度も上昇すると森が草原になる可能性もあり、世界中で民族移動が発生したのかも知れません。

+2度C の世界

日本人はるかな旅展

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Comments

縄文時代→(稲作)→弥生時代
 と、こういう図式自体の見直しと、年限を過去にしないと合わなくなってきたわけですね。
 木の年輪とか、DNAとか、科学考古学が実証力を持ってきたということになりますね。

Posted by: Mu | 2005.06.27 02:24 AM

Muさん

大陸とこれだけ近い距離に日本列島はある訳ですから、大陸で発生した事象の影響は直ぐに受けたでしょうね。

雑穀は早くから始まっており、稲作も陸稲は縄文の後期から始まっていたでしょうね。静岡大学の佐藤先生の話だと、5世紀の古墳時代の稲作でも陸稲が水田稲作の倍以上の比率で耕作されていたと。

水田稲作が本格的に始まるのは、鉄が国内で十分に製造され初めてからでしょうね。

しかし、縄文時代を1万年に及ぶ長い期間を括るとは、馬鹿にしてますよね?縄文の人々が怒りますね。

Posted by: jo | 2005.06.27 08:28 AM

Joさん、縄の話をもっと聞いてみたかった。昔から気になっていたのは、縄文時代の人は普段から縄が生活に密着していたから、縄紋様の土器があった筈やと哲は思ってました。

しかし、縄文人は日常生活の中で、縄を何の目的で使用していたのか?が大きな疑問でした。竪穴式住居の建設、これは日常ではない。家畜を飼う習慣はない・・・。ず~っと、ず~っと疑問でした。

縄は稲藁から作るのと違う?稲作は弥生時代から?~これも疑問だった。何で縄文時代に縄があるんやと。

船ですか・・・潮の流れや、川の流れに身を任せるのではなく、帆に風を受けて船を操っていた?かも知らんということですね。

帆を作るための生地を織る、糸を紡む、縄を編む・・・日常生活に縄紋様が密着してますね。あまりにも根拠のない解釈ですかね~?

Posted by: | 2005.06.27 11:36 AM

哲チャン

流石に理科系の子供やったんやね?稲もないのに何で縄文や?
土器を製作で縄文をつけているから、日頃の身の回りに縄が存在した、且つ、土器製作は女性の仕事であったでしょうから、女性の身の回りに縄が存在した。

縄文遺跡の鳥浜貝塚から多量の大麻の縄、紐が発掘されてるし(世界最古の縄)、麻、カラムシ、アカソ、芋麻、オヒョウ、イグサ科等々の植物繊維から布も製作していたようや。

三内丸山からは、縄文のポシェットと呼ばれるイグサ科の植物で織物にして袋を作り木の実を入れていた。

帆は麻で織ればできるし、長江流域では竹で編んでいるね。

航海では碇を使うにしても、櫓を縛り付けるのも、海が荒れたときに身体を縛り付けるにも、水甕を固定するにも、縄は必要でした。

例の綱引きの行事やけどね。アレ、東南アジアでやりますね、以前にテレビで観ました。確か、出雲神話で国を綱で引っ張ってたぐり寄せたという話がありましたね。

縄といえば、魚を捕るには網が必要やね、それに釣り糸も必須ですね。鹿とか魚の骨を針にして魚を捕獲してたんやろ。

どうも、我が祖先は縄が得意だったようです。
古代史は一筋縄ではいかんようやね?(笑)

Posted by: jo | 2005.06.27 12:16 PM

テッチャン、お答えしましょう

 人間が最初に縄状のものを使ったのは、獲物を持ち帰る時だった、という説がございます。
JOさんはいい線いったのだけど、魚を獲る時には必ずしも縄を必要としません。
手で捕まえることも出来ますしモリで突いてもよろしい。

 しかるに、何匹もとった魚を持ち帰る時。
一番安直だったのが縄なんです。
ヒャ~ッとエラのとこ通して、何匹でもOKです。

 ま、これは実体験としては納得出来る説です。
ついでにテッチャン、麦では縄はなえませんねえ。
麦わら帽子は出来ますけどねえ。

 以上、理科系としてのコメントでした。

Posted by: ふうてん | 2005.06.27 08:29 PM

ふうてんさん

昔漫画で見ましたよ、熊が鮭を沢山獲り、笹のような茎の長いもんに通して肩からしょって、歩いている場面。そいで、気がついたらみんな、途中で抜け落ちてる漫画。

そういえば、縄で思い出したけど、ナンチャラ文字とか数字の発明は縄だという話。ホレ結び目で表現する奴です。一つ結んだら1で、二個なら2という按配。

結ぶという言葉は結構、神との約束に繋がるのかな~~、奥がふかそうやね。

今日の京都新聞では米原近くの縄文遺跡でマグロの骨が発掘されたそうやね?グルメな縄文人という見出しでした。あんな、魚をどやって捕獲してたんやろ?

Posted by: jo | 2005.06.27 08:54 PM

Joさんも京都新聞、見てはりますか。

6/23の記事では無いですか?
僕なんか小さい頃は、身欠き鰊か、サンマの開きか、鯨か、塩鯖くらいしか、魚は口に入らなかったけど、
(マグロなんか食べた記憶ありません)
縄文時代はグルメやったんですね。
海岸線が近かったので、伊勢の方へ出かけていたのですかね。
釣り針も多数出ていますね。

Posted by: Ys | 2005.06.27 09:26 PM

ふうてんさん、Joさん嬉しい縄の話ありがとうです。獲物を持ち帰るのに縄を使っていた。何か、哲の時代より縄文時代の方が文明が進んでいたのかなぁ~(>_<)

Охотскでは釣り上げたヤマメは、二股になった細い柳の枝(川岸によく生えていた)を探し、一方を長くして他は短くしたやつを作って、それに魚のエラから口の方に刺し通すように、何匹も・・・とやってました。

他にJoさんが言うように、葉を沢山つけた笹を根元から折って同じように使いました。漫画のようにはなりませんでしたがね。

Posted by: | 2005.06.27 11:54 PM

Ysさん

京都新聞のインターネット版と奈良新聞は必ず読んでいます。
理由は古代史関連の記事が多いんです。

子供の頃にマグロなんて、私も食べたことないです。あんな魚雷のように海中を飛んで行く魚は捕獲するのも大変だったと思います。

縄文人が如何にして捕獲したか?興味のあるところです。今でも釣り糸はワイヤーを使いますよね?そんなもん無い時代ですよ。

鯨は子供の頃によく食べましたね、京菜というのかな、少し苦い野菜とすき焼きみたいにして食べていました。

さて、しかし米原のマグロは何処から来たんでしょうね?日本海か伊勢湾か?

Posted by: jo | 2005.06.28 11:10 AM

哲ちゃん

アホーツクでは縄文時代より文明は遅れていたようやな?

川魚を捕獲する時は周りに沢山の笹とか木の枝とかあるけどね、海では無いのとちゃうか?船で漁労をして帰る時に魚をどうして持ち帰るかやね?

日本では陸上輸送の文明が遅れたそうや、海とか河川による輸送だったので、車輪の発明が遅れたそうやね。縄文時代にはリヤカーも大八車も無い。あるのは、修羅という巨大な橇しかなかった。

やはり、縄が活躍したんでしょうね。

Posted by: jo | 2005.06.28 11:19 AM

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