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Lacalaca 日本滞在記

一月以上日本に滞在したMISAYOもフランスに帰国した。日本滞在記の写真を掲載始めました。

Lacalaca web

PARFAIT雑貨店

タコヤキの写真が恥ずかしいです。

MISAYOも頑張ってフランスで雑貨と古着を仕入れて、本当に気に入るものだけをお店に置いていますので、暇なお方は一度、遊びにお立ち寄りください。

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批評記事の掲載(ご紹介)

いつもコメントを頂いております、奈良在住の”ほかもさん”がJoBlogの今年半期の論評記事を書かれました。

最初は何時も美しい京都の花をご紹介されている、hisakiさんの”flower”の論評記事。二番目がMuさんの”MuBlog”の論評でした。わたしのBlogが三番目の紹介で、最後はふうてんさんのBlogだそうです。

(Blog記事を振り返り)

私は、自慢ではないですが国語が苦手で誤字・脱字も多く人様に公開できるような文章は書けないと考えていました。しかし、niftyの古河さんに強制的にやれ!と言われ、始めたのが偽らざる事実であります。

時を同じくして、京都のMu先生が始められ、コメントを頂いたり励ましていただいたり、コソット、メールで文章添削を頂いたりして続けました。国立のふうてん老人も厳しく私の記事をチェックして、メールで添削を頂いておりました。

記事は公開なので、仕事に関する事項は迷惑をかける人々が多いので、書く事は出来ませんが、しかし、かなりな身の回りの事とか自分の精神史については書く事が出来るんだと、発見しました。

来年は還暦を迎えようとする人間が60年を振り返り、なんと馬鹿な事をやって来たのか、なんと楽しい人生を送る事が出来たのか、悲喜こもごもの人間らしい足跡を書ければいいのではないか?と、最近は思うようになりました。

私の場合は子供の頃の思い出が、とても懐かしく記事に書いて残したいと強く思います。敗戦直後の焼け野原だった時代、日本人の大人たちが自信を喪失した時代、物が何も無かった時代、しかし、子供達には希望と夢があった時代なのです。

子供の頃から古墳とか神社とかが好きで、不思議な少年でしたが、これは今から考えると自分探しの旅が祖国探しの旅と同義であったのでは?と思います。遂に60歳近くまでこの祖国探しの旅は続いているんですね。

私が思う祖国とは、物理的な祖国では有りません、司馬さんが言う”国のかたち”です。私達の先祖は何を大事にしてきたのか、何を恐れてきたのか、何を尊敬してきたのか、等々の目に見えない祖国のかたちです。

最近の世間の事件をテレビとか新聞で読むにつけ、この国のかたちはどうなったのか?と、本当に心配になります。敗戦から60年経過しました、このままでは本当にまずいのではないか?もう一度、焼け野原になって出直したほうがいいのではないか?なんて、思う時があります。

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昭和20年代の風景

昭和ひとけた京育ちというwebサイトを紹介します。私は昭和21年生まれですから、ひとけたでは有りませんが殆ど同じ記憶です。

目次2も追加します。

(洗い張り)

私の母も庭ではよく洗い張りをしていました。長い板に糊をつけた布を貼り付け、壁に立てかけていました。又、ハンモックのように洗って糊をつけた布を弓矢のように布の端に針で突き刺して干していました。この両端に針が埋め込まれた竹の細い棒は伸子(しんし)と呼ぶそうです。

まさに、絵にあるような光景でしたね。子供の頃は母が何をしているのか?あまり、判らないまま傍で遊んでいた記憶があります。昔の人は着物を着るのが普通だったんですね、だから、洗い張りが必要でした。今は本当に便利になりましたね。

(ろーせき)

蝋石(ろうせき)は必ず駄菓子屋さんでは、売られていました。チヨークのようなものですがこれで、舗装された道とか石畳に絵を描いたり、ケンケンの図面を書いたりしました。

(スズメとり)

ともかく、スズメが沢山いましたね。庭に駕籠で絵のように仕掛けを作りスズメを捕獲する。しかし、一度も捕獲できた記憶は有りません。空気銃を友人から借りて狙いましたが、やはり一度もやっつける事は出来なかった。
とにかく、スズメはすばしっこいのだ。

(トンボとり)

これは、何回も記事に書きました。紐の両端に銀紙で包んだ石を括りつけ大空に放り投げて捕まえる遊び。
これが、トンボのテリトリーを守る習性を利用した高度な科学的なものである事は知らなかった。

(ゴムとび)

女の子達は遊びといえば、ゴムとびでした。歌をうたいながら飛び跳ねていましたが、何が面白いのか何時も不思議でしたね。

(ぱちんこ)

自作したり、駄菓子屋で購入したり、必ず持ち歩いていました。パチンコと十字手裏剣と小刀(肥後守)はガキの必須品でした。今から考えると危険な遊びをしていたんですね。

(よなべ)

当時は子供の数が多かったのと物を大事にする時代でした。母は針山のついた棒を立てて、つぎはぎをしていた記憶があります。とにかく、かぎ裂きが多かったですね。

沢山の絵を眺めていると、子供の頃が想い出されますね。懐かしい素晴らしい時代でした。

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Jo君の歴史彷徨(4)

それでは縄文時代について考えてみましょう。今から2万2千年前に最後の氷河期に入り日本列島はユーラシアと陸続きになりました。そして樺太からはマンモスとか大型の哺乳類を追いかける人々が南下した。これが、約1万年続いたわけです。

今から1万2千年前の頃から氷河期は終息し、間氷期にはいりました。そして、日本列島は海面上昇の為に大陸からは切り離されたわけです。この1万2千年前からその後の1万年、そうですね、紀元前3百年の頃の長きに渡る期間を縄文時代と呼んでいます。

名前の命名は土器の形態から付けられたようです、製作プロセスで縄を押し付けて空気を抜いた。10センチ程度の縄の紐を土器に押し付けて製作した。岡本太郎画伯が日本で始めて、縄文土器の美しさを認め、あの火焔土器のイメージに傾倒し、彼の作品に根本的に影響を与えたと聞いています。

この数年前までの常識が最近の発掘成果と科学技術の進歩により、縄文世界が根本から覆りました。その大きな事件は三つ有ります。

三内丸山遺跡の発掘)

約5千年前からの遺跡ですが、栗の栽培をしていた事実です。これは、DNA分析で判明しました、野生の植物とか木の実を採取していただけではないのですね。農耕が始まっていたのです。

縄文人が海洋航海民である証拠が沢山発掘されましたね。糸魚川で採掘されたヒスイと高度な加工技術、岩手県から運んだ琥珀、北海道は十勝、秋田県の男鹿、山形県は月山、佐渡、長野県霧が峰等々から運んだ黒曜石です。これは、鏃とか小刀、槍等々の石器として加工された。

そして、漆です。赤漆が塗られた木製皿も出土し、漆の技術が既に開発されていたんです。同じ縄文遺跡である若狭の鳥浜遺跡からは、漆とともにエゴマの実が発掘され、漆の混和材として必要なエゴマ油を既に使用していた事が判り、漆は中国よりも古い事が判明しました。

そして、巨大な掘立柱の建造物の痕跡です。

(巨木文化)

三内丸山遺跡だけではなく、日本海沿岸の縄文遺跡、新潟県青海町の寺地遺跡、石川県金沢市のチカモリ遺跡、能都町の真脇遺跡等々ではクリの巨木の柱が発掘されている。近くの森から切り出したのではなく、木の端に穴を穿ち(目処穴)ロープで縛るか修羅で運ぶかしたんでしょうね。

そうそう、このロープの技術ですが、縄ですね。偶然に縄文という縄の時代と命名されたが、縄が航海では一番重要な基礎技術だそうです。縄と土器が無ければ航海は出来ないそうです。遥か海原を航海するには、この二つが最重要技術だそうです。(神社の注連縄は蛇信仰で2匹の蛇が巻き付いて豊穣祈願と思うが、ひょっとすると縄文時代の海洋民の記憶かもしれませんね)

巨木掘立柱の技術は日本海沿岸では受け継がれ、遂に時代は異なるが出雲の32丈の出雲大社建設となるのですね。

(稲作は始まっていた)

弥生時代の代名詞である稲作が既に縄文時代に始まっていた。これは、衝撃の歴史を塗り替える、抜本的に歴史を見直す事件となりました。

岡山県の朝寝鼻貝塚遺跡にて6000年前のプラントオパールが検出されました。稲の細胞ですね。この稲の問題については弥生時代で詳しく記事にする予定ですが、最近の稲のDNA分析が進歩し、特に、静岡大学の佐藤洋一郎先生が次々と衝撃的な稲の伝播に関わる報告をされている。

同じく、水田跡も縄文遺跡から発掘され、例えば、佐賀県唐津市の菜畑遺跡があります、縄文晩期の遺跡ですね。稲作については、今後今までの常識が覆る可能性が多いです。国立歴史民族博物館は弥生時代の開始を紀元前10世紀にしましょうと提案している。これは、縄文晩期である。

さて、話は逸れますが、佐藤先生の話では野生の稲の発祥地であり、栽培の発祥地は長江下流域、カボト遺跡であると発言している。従来の説はアッサム地方から雲南と言われていた。カボト遺跡からは7000年前の炭化米や稲作の道具が発掘・分析されたそうだ。

日本への稲の伝播ルートについても新発見が相次いでいます。大阪 池上曽根遺跡、奈良唐古鍵遺跡の2200年前の弥生米をDNA分析すると朝鮮半島には存在しない稲の種類(DNA)が発見され中国から直接に日本に伝播した証拠が見つかった。勿論、朝鮮半島経由の稲も存在した。

(縄文海進とノアの箱舟)

6000年前に最大に気温が上昇し、日本では今よりプラス2度上昇し、海面は4メータ上昇したそうだ。だから、三内丸山遺跡の人々も今は山の上のような場所に見えるが、近くまで海岸線が寄せていたんでしょうね。この気候変動は地球的に起こっていますので、世界中で気象異常というか海進異変が発生した。

メソポタミア、黒海、あらゆる場所が洪水に遭遇したと想定されますので、旧約聖書のノアの洪水の記憶もこの時の可能性も有りますね。そして、気温が2度も上昇すると森が草原になる可能性もあり、世界中で民族移動が発生したのかも知れません。

+2度C の世界

日本人はるかな旅展

縄文 VS 弥生 歴博

Jo過去記事 龍の文明・太陽の文明

Jo過去記事 鳳凰と長江稲作文明

Jo過去記事 縄文のビーナス

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猫新幹線 時速360キロ

猫新幹線が実用化されるのか?朝日.comニュース

思わず、笑いででましたが、時速360キロで飛ばすと、速度を落とすのにラジコン飛行機のようにエアーブレーキが必要なようだ。耳を立てて空気抵抗を作り制動する。これは、飛行機の発想である。時速360キロではそうなんでしょうね。もはや、F1並みであり翼を付ければ飛び立つレベルである。

本当は格好がいい新幹線であるようだ。

名前は”FASTECH360s"だそうだ。高速技術、360キロ、新幹線のsだと。判りやすい名前である。これが、本当の名前か技術開発途中の名前か判らないけど、目標をコミットするのは技術屋として素晴らしいと思う。

JR東のプレスでは

しかし、飛行機が出来てもう電車は必要無いと迄考えた人々もいただろうが、日本のJRも根性が有りますね。
日本は、かの大戦で敗戦し、飛行機の多くの技術屋が職を失い、自動車と鉄道に活路を開拓するしか無かった。

私は日本のトヨタを始めホンダ等々の自動車メーカが世界の先端を走り、新幹線が世界先端を切り開いているのは根性だと思う。占領政策により飛行機の製造は禁止され、今でも戦闘機をはじめ飛行機の開発は国際政治的に難しい。どれだけの優秀な飛行機の技術屋が涙を飲んだのか・・・・。

同胞ドイツにおいても同じであり、昔、ミュンヘン博物館を訪れた時に戦後すぐに飛行機の設計者が自動車業界に流れ自動車を製作した。まるで、飛行機のような自動車を見て涙がでましたね。

ま、猫のように静かに足音をたてずに疾走する猫型新幹線、まるで、ドラエモンの乗りで思わず嬉しくなりました。

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Jo君の歴史彷徨(3)

今回は縄文時代から綿々と伝わる、"朱”についてです。

何故この話を縄文時代より先に話をするのかは、その後の弥生時代、古墳時代、大和王権時代、と続く列島においてこの朱が重要な鍵を握るからなのです。朱は辰砂から抽出し、水銀であり、金の製造に必要不可欠です、鉱山技術、金属精錬技術の輸入と進化が歴史を動かし、列島の歴史を動かした重要なファクターの一部だからです。

この風俗は日本列島だけでなく、中国を始め中米、南米の古代より信仰のある朱についてです。死者には朱を塗り、棺桶、甕棺には朱が塗られています。永遠の命の象徴であり、防腐剤であり、殺菌剤であり、特殊な信仰がありました。そして金と同じ価値があったと言われています。

特に中国では不老不死の仙薬として王侯・貴族は珍重しました。今から考えると、怖い話ですが、水銀を飲んでいたわけですね。

(縄文時代の朱)

日本は火山国であり、地震国であり、あらゆるところに構造線が走っています。自然界に存在する硫化水銀(HgS)が地熱とか火山性の熱で熱せられ、酸素(O2)と科学反応を行い水銀が地表に出現し血の池のような状態を作ります。

古代の人は、自然界の朱を採取して海の潜る時とか、ハレの場面では顔につけていたようです。魏志倭人伝にも倭人の風俗として取り上げられています。

(中央構造線)

日本には天竜川から知多半島、伊勢、櫛田川、奈良は宇陀、紀ノ川と近畿南部を通過し、四国を貫通して、九州は豊後から九州南部に抜ける中央構造線が走っている。

この中央構造線の上には鉱物資源、特に水銀の鉱脈が存在します。私は古代列島において海上貿易で生業をたてていた集団が一番商品として狙ったのは、朱、水銀ではないかと考えています。神武さんがわざわざ東征されたのも、水銀を探しての旅と考えています。

吉野から宇陀に入られた時に土蜘蛛という、朱に関わる集団と遭遇し、イワレに都を置かれます。ここは、水銀鉱山の場所なんですね。 大和水銀鉱山

当時は、自然界に朱が噴出していたと想定されます。

(不自然な伊勢神宮)

崇神王権の時代に不自然に天照大神を三輪山から伊勢に移しました。大物主(三輪山御神体)の怒りで伝染病が蔓延したと考えたからと記紀は説明するが、ふに落ちない。

実は伊勢には巨大な埋蔵量を持つ水銀鉱山が存在したんですね。伊勢水銀

ひょっとすると、大和王権はこの鉱物資源を押さえる為に伊勢神宮という天孫族の祖神を建設した可能性がありますね。その後、江戸時代では伊勢参りのお土産として”伊勢白粉”が繁盛したそうです。(辰砂と塩と赤土を熱して白粉を製造)

(邦光史郎さんの説)

彼は”朱の伝説”という本でヤマトタケルと朱を製造する特殊集団、丹生族との関係について深い関係を論及しています。彼の死後、伊勢の能煩野に陵が作られ、白鳥となり中央構造線に沿って飛んで行き、奈良御所市の琴弾原に休止し、陵が出来、又、西に飛び河内の羽曳野の古市に陵が出来た。

丹生族の祭神である丹生神社が存在するところに白鳥は飛んで行ったと。

神武さんのイワレに都を開いた理由も邦光さんは水銀説である。(学会では無視されていますけどね)

(丹波、丹後も)

Ysさんの故郷の丹波も丹後の国も名前の由来は朱、水銀ですね。ここは、鉄の製造についても盛んでしたので、水銀だけでは有りません。けど、丹が一番重要だったんですね。

今回は朱、丹、辰砂、水銀、を中心にプロローグの話でした、これが日本の歴史で延々とこれから続きます。
 あをによし 奈良の京は 咲く花の
 にほふがごとく 今さかりなり
   小野老

あをによし(青丹よし)の私の解釈は青と朱の色鮮やかな建物を指すと考えます。とりわけ、柱の朱は見事であります、この高価な原料を巡る話が古代では重要でありました。

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鳥居について

神社には必ず入り口に鳥居がある。未だに、この日本人が気にすることもなく存在する鳥居に昔から疑問がある。
何故神社には必ず鳥居があるのか?何故穢れているときは門を潜れないのか?誰が決めたのか?

先ず基礎知識としての、鳥居。

私の知識では、鳥越憲三郎先生の雲南省起源説である。タイ北部の山岳民族の村の入り口には邪が入らないように鳥居があり、鳥が止まっている。村の結界である。

同じく、鳥は特別であり空を飛ぶ、人間の魂を運んでくれる。人間は死ぬと魂は鳥になり黄泉の国に飛び去る。
ヤマトタケルの白鳥伝説もこれである。

一度記事に書いたが、長江文明でカラスが太陽の使者であり、太陽を運ぶ。馬王堆王墓の棺桶を覆った布に描かれていた。そして、目玉が飛び出た蜀の国の神樹の鳥。どうも、長江流域の鳳凰伝説を持つ民族は鳥を神の使いと考えていた。

それが、遊牧民と黄河流域の民族に追いやられ、雲南の山奥に逃げた。(殷王朝の成立時点での排斥)
一方、長江下流域に逃げた連中もいた。概略そのような記事を書いたように記憶する。

さらに、鳥居参考記事

(最近の私の仮説を二つ)

・海人族のシンボルではないか

ニニギの命、ニギハヤヒの命、神武天皇、皆さん東征を船で行った。当時の航海は沿岸を航行し、陸地に沿い航行する。そして、必ず多くのカラスを始め鳥を船の甲板の木の上に縛りつけ航行した。私が想像するに、鳥居のように木を組み上に鳥を縛り付けて航海したのではないか?

陸地が見えなくなると、この鳥を放ち陸地目掛けて飛んで行く鳥を追い船の舵を切る。水先案内である。ここに、原点があるのではないでしょうか。

・連理の榊ではないか

賀茂神社とかヤマトタケルの萱津神社には連理の榊が存在する。これは、二本の榊が空中で合体する不思議な木である。古より”産霊(むすび)の霊木”と言われている。常緑広葉樹である榊を神の木と信ずる人々がこの姿を見て鳥居としたのではないか。
賀茂神社 連理の榊

萱津神社 連理の榊

今の所は、鳥越先生の説が通説でしょうね、けど、色々と想像するのも楽しいではないですか?だから、古代史は知的冒険の世界なんです。な~~んてね。

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台風一過 オリーブ去る

いや~~この一ヶ月少し、慌しい我が家であった。今回は先月に娘(オリーブ)が仕事で帰国し、1週間後には突然に帰国し、その2日後にはとんぼ返りで又、日本に舞い戻り1ヶ月近く我が家で騒いでいた。

(靴を6足近く買う)

どうしたのか、突然に靴を6足ほど購入してきた。見れば見るほど大きな靴である。昔のポパイの映画を思いだす。ポパイが好きなオリーブという女性である。これが、メチャ足が大きい思い出がある。娘と姿、かたち、振る舞いホンマよく似てる。こないに、靴のまとめ買いしてどうしたんでしょうね。理解に苦しむ。

(甚平を土産に買う)

フランスへの土産は甚平らしい。これも、数枚購入していたようだ。ホンマ、フランス人は甚平着てパリを歩くんやろか?まともな買い物は電子辞書でフランス語対応で5万円位らしい。(唯一高価な買い物)

ともかく、毎日毎日、慌しく動き回り、夜は一晩中イラストの仕事をして、朝方から昼頃まで寝ている。しかし、女とは元気で逞しい生物であるようだ。

やっと、昨日フランスに帰ったので、ホットしたものだ。又、一年後には帰ってくるんでしょうね。

(スポーツの事)

U20のサッカーチームも勝てないけど、引き分けばかりで決勝トーナメントに進出。これも嬉しい。岡チャンに似た監督の顔を見ると昔の代表チームを思いだす。

ギリシャによく勝てた、立派である。欧州チャンピオンであるギリシャである。メキシコ戦では中田と俊輔の不和が新聞で報道され、心配していた。今回は、中田は完全にボランチに徹していたのが印象的である。

俊輔と出雲の神様、大国様じゃない大黒様が仕事をした。彼はキャラが立つ男である。これから、楽しみなり。

遂に、ジーコの故郷ブラジルはカナリア軍団との戦いである。ジーコにとり一生の思い出になる試合でしょうね。
自分が日本に来て育てたJリーグの戦士達と世界FIFAランク一番のブラジルとの戦いである。

ジーコは世界のサッカー選手たちから神様と言われて来た、しかし、一度もワールドカップでは優勝していない。
彼の心情を察するに、東洋の田舎サッカーチームを此処まで鍛え上げた自負とプライドがあると思う。

数日後の試合が楽しみである。ジーコに注目して試合を観戦してみます。


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Jo君の歴史彷徨(2)

最近感動した地図が、環日本海諸国図であります。

この地図はユーラシア大陸から日本列島を眺めた地図です。こう見るとサンゴ礁が連なるように大陸の沖に環状に並んでいる事がわかりますね。ユーラシア大陸の東の太平洋に面する海岸線だったんですね。

この写真と遭遇したのは、講談社 日本の歴史00 網野善彦 ”日本とは何か”の大作です。幾多の地球環境の変化とユーラシア大陸での政治変動に対して、この、サンゴ礁のような列島は如何なる運命を辿ってきたのか?地図を眺めているだけで、走馬灯のように思いが巡るのです。

2万5千年前の最終氷期(ビュルム 氷期)に海面は140メートル低下し、浅い海は陸地化したそうです。その時には対馬海峡、津軽海峡、宗谷岬は陸続きとなった。そして、日本海は湖となったそうだ。

そして、ナウマン象とかオオツノジカが日本列島に渡り、南下した。勿論、ユーラシアからマンモスを追っかけて猟をしていた人々も日本列島に辿り着いたわけですね。これが、1万4千年も続いた訳です。随分と長い期間、日本列島は大陸の一部分だったんですね。

それが、1万1千年前になると、地球の温暖化により海面が上昇し今の日本列島の形になったそうです。ここから又、海に浮かぶ列島になりました。縄文早期文化の黎明です。そして、6500年前から6300年前頃に鹿児島南方の鬼界カルデラの大爆発が発生し、鹿児島から南四国一帯は壊滅しました。

(シベリアの民が移動)

マンモスやオオツノジカを追いかけて来た人々は、遥かバイカル湖あたりに居住していたブリヤート人であると、説が有ります。特徴は細石刃(サイセキジン)という狩猟用の武器を使用する。鹿とか動物の骨の両側にカミソリのような黒曜石の破片を埋め込み槍の穂先につけて、大型動物を仕留める武器である。

シベリア、北海道を始め日本列島で発掘された。最近はDNA分析により人間を含む動物のルーツを追いかける研究が盛んです。人間の場合は染色体のDNAを調べるだけでなく、細胞質に存在するミトコンドリアのDNAを分析する手法が有名である。今後益々、研究が進むと思うが縄文人とバイカル湖のブリヤート人との共通性をミトコンドリアDNA分析で論証した研究者がおられるそうだ。

(日本海側が表日本)

この地図を見て判るのは日本列島では日本海側が大陸に面しており、交通、文化、経済、全てにおいて早くに進化したと考えられます。太平洋側は波も荒いし、文化、文明らしい島は皆無である。だから、北海道から琉球迄の弧においては大陸側との交易が重要となります。

日本海が大きな湖であった頃から輸送手段は船であったと考えて無理はないでしょうね。縄文早期の三内丸山遺跡では船による交易でもたらされた、黒曜石、とか輝石が発掘されている。

(普通の地図で判る事)

皆様が馴染みの東アジアの地図で判るのは、人間生活と切っても切れない関係の植生と気候ですね。ヒマラヤ山脈の南斜面中腹からインドシナ半島山岳部、そして雲南・華南山岳部、そして長江流域部、そして日本列島と続く照葉樹林文化の存在です。

常緑広葉樹を照葉樹林と呼ぶが、この温帯の気候と植生が共通の生活様式と文化を生んだのではないか?という、文化論が照葉樹林文化と呼びます。この中で、特に大事なのが稲になります。

次回は稲について、縄文時代からどのように関わって来たか、それが今の我々にどのような影響を与えたたのか?を探りましょう。

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2005年6月19日 千葉飛行会

2005_06190018梅雨の季節であるが、幸い天気に恵まれた。恒例、朝8時より千葉、八千代飛行場にてフライト開始する。岩ちゃん、ラジコン親爺、ワコチャン、カッチン、joの5人が集まる。

2005年6月19日 千葉飛行会 写真

写真は私の、初飛行の”オーラムスポーツ30"と、岩ちゃんの”ズリン”である。両機ともに美しく出来ている。(笑)
私の初飛行は、完璧でしたね。調整なしで正確なフライトでした。ただ、音が煩いので不思議でしたが、エンジンとチューンドマフラーの接合部分に少し、隙間があるようです。

初飛行での着陸ではオーバーランをして、田圃の水溜りに不時着でした。靴を脱いで、はだしになりズボンを巻くし上げて回収したが、それでもズボンが泥だらけになる。飛行機は無事でサーボも受信機も水害の被害は無し。

この飛行機は機速が早く、着陸時でも速度が落ちない。エアーブレーキが必要ですね。二回目のフライトではちゃんと着陸出来ました。僅かな地表に下ろす必要があり、周りは2メータ程の葦が茂っている。(技術が必要)

ズリンも快調なフライトでした、ムスタングのような機体でしたね。飛びも良好でした。

2005_06190012
カッチンは何時も、ワコチャンの機体整備に追われ、自分の時間が無い。ラジコン親爺もそうである。ホンマ面倒かける奴である。ラジコン親爺の電動機でのファンフライは面白そうでしたね、墜落しても壊れない機体ですから、狭い場所でも楽しめて面白い。

わこちゃんは、今回も不調でした。1機目は飛ぶには飛んだが、葦薮の中に墜落でした。2機目はカッチンが操縦したが、不調でした。

岩ちゃんも絶不調から抜け出し、ヘリも快調で宙返りを難なくしてましたね。16リットルのグローオイル缶をぶら下げて飛行場に現れたときは、度肝を抜かれました。

ともかく、無事終了しました。次回は来月の信州は岩岳、栂池での合宿です。

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黒潮大蛇行

昨年の夏より13年振りに黒潮大蛇行が始まり、今年もそれが続いているそうだ。漁業関係者には大きな打撃を与えていると聴きます。

・気象庁 黒潮大蛇行

東海沖で大きく南へ蛇行し、房総沖で再び接岸している。串本ではカツオの不漁が続き昨年の1/2の漁獲量だそうだ。

・衛星写真から大蛇行

大蛇行で囲まれた海域は海底より冷水が噴出し、冷水塊を形成し海水温度が数度低下するそうだ。海底の水は栄養分を含んでいるので、これがさまざまな魚と、植物の植生に影響を与えると。

・植物プランクトン大発生

この大蛇行に囲まれた海域に植物プランクトンが大発生しているそうです。遠州灘沖では海水温度が例年より4度低く黒潮蛇行による影響で海底の栄養分豊富な冷水が湧きあがったからだそうだ。

今年は、鰹は諦めるかな。

(他の影響が心配)

黒潮は秒速2メータで幅が100キロと聞いています、こんなもんが大きく流れを変えれば、気候から自然界の動植物まで影響があるに決っている。黒潮は暖流だから、温度は周りの海水より高い筈であるし、逆に遠州灘には海底から冷水が吹上げてくれば温度が4度も下がっていると。冷夏にならないのか?

これは、部分的な地域の現象に見えるが、実は、もっと大掛かりな異変が起こっているのかも知れない。地球環境が何か異変を起こしている可能性はないのだろうか?黒潮大蛇行では漁獲量の心配ばかりしてる、記事が目立つが、それも大事かも知れないが、何か他の大きな問題を見逃していないのでしょうかね。

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とんぼに魅せられた先生

この数週間はラジコン飛行機から、ご無沙汰している。別に、忘れたわけでもなく、嫌になっつた訳でもなく、飛ばしたいのだが、チャンスがない。先週末は天気予報が梅雨到来と言うもんだし、台風も来てたし、フライトは事前に中止となった。

しかし、ベランダで布団干しが出来る程の快晴であり、東京のマラソンでは熱中症で人々が倒れる程であった。ホンマ天気予報はこれだけ、科学が進歩しても、判らんのやね。

と、いう訳で今週末には再度フライトを敢行する予定である。幸い、週末は”今のところ”快晴の予報である。しかし、油断ならない。

先日、NHKのアーカイブスでは日本の航空力学の権威の先生が、とんぼの羽の研究をして、ゴム動力で飛ぶトンボの模型飛行機を飛ばす番組をしていましたな。子供の頃のトンボ採りを再現していて、銀ヤンマを紐の先にくくり、クルクル空中で廻すとテリトリー争いで、トンボが刳りつく。そこを、すかさず網をかける。

この親爺はとても上手でしたね。風洞実験でトンボの羽の動きと揚力と重心を計測し、学会で発表したそうだ。銀ヤンマは高速で飛行できると同時に運動性能は抜群であり、且つ、急速に停止しホバリングも出来る。こんなヘリコプターは実機では存在しない。

前二枚の羽と後ろ二枚の羽が時間差で動き、ひねりながら上下する。羽の先に一番揚力が生まれているようだ。羽の付け根の筋肉がとてつもなく発達している。勿論自重が軽い事もあるが、見事である。自然とはホンマ凄いの一語に尽きる。

古代に於いて、数メータのジャイアント・ドラゴンフライが飛んでいたのだ。勿論その頃の哺乳類はねずみ位の大きさだったでしょう。昆虫は背骨が無いから、胴枠の張りぼてで身体を支えねばならず、構造力学的に大きくなれない筈である。その点、恐竜から進化した鳥は背骨があるから、骨の中身を空洞にすれば軽くて強度が保てるので、大きく進化出来た。

ま、子供の頃の興味が大人になって開花した楽しい番組でした。やっぱり、子供は自然が残る田舎で育てるのが一番ですね。

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JO君の歴史彷徨(1)

この1年数ヶ月に渡り、日本列島の古代史を中心に記事を書いて来ました。幸い友人のMuさんが私と同じく古代史のロマンに憧れておられる人であり、記事が書けて来た。Blogはやってみて判るが、仲間がいなければ続けることが出来ない。本当に有り難いと思う、一人だけでは一つのテーマを追い続けるのは難しい。

そこで、これからシリーズ記事として、”JO君の歴史彷徨”を何回続くか判らないが、書く事にした。これは、現在私が理解している日本の古代の歴史を纏める記事である。細かい事は省くが、骨太で理解している東アジアの歴史の中の日本の認識である。

司馬さんが、昔よく言われていた、”腰で銃を撃つ”という世界である。細かいことははしょり、大局で歴史を見る考えである。

何故、こんな気持ちになったか、それは最近の東アジアの緊張と日本の政治家の発言が私には、余りにも現在と近い未来を見ての発言が多く、どうして東アジアの歴史2000年を踏まえて御発言がないのか?私は、司馬さんが生きていれば、現在の日本の置かれている状況をどう未来に向かい提言されるか?最近は特に夢枕におたちになります。

中国と朝鮮半島と我が国の関係が一番、これから大事であると思う。その為には、わが祖国”秋津島やまとの国”の成立から如何に、朝鮮半島の諸国そして背後に控える中国の歴史と関わって来たのか?理解しなければいけない。

勿論、氷河期迄も遡りシベリアからマンモスを追いかけて、カムチャッカから氷の上を南下して来た人々から話をしなければ、いけないかも知れないが、面倒なので省きたい。それと、通説と私の独断の意見は区別して記述したいと思います。しかし、古代史は通説が沢山存在し代表的なものに留めたい。

ほぼ、1年程かけてのんびりと、シリーズは書きます、ほかもさんにも判る日本古代史となるようにします。御期待ください。

最初に、お断りしますが、古代史は新しい発掘が有りますと意見を180度変える事があります、ご承知下さい。
そして、現在解明されていない課題についても、多くを述べたい。それも、私が個人的に興味ある世界になるかも知れませんが、あしからず。

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今日の料理 スルメイカ編

今日は、娘二人と孫も来るので五人で晩飯である。料理担当は私である。

レシピ1: 豆御飯

やはり、女子供には豆御飯である、豆をカラから剥き、米に昆布を入れて豆を入れ炊き込む。

レシピ2:ポテトサラダ

これは、私が好きだ、ジャガイモを茹でてキュウリを薄切りにして入れる。そして、少し上等のハムを切りいれる。そうそう、開発工程を短縮するためにジャガイモを煮るときに卵2個も投入し、ゆで卵を製作する。茹で卵も投入し塩とマヨネーズで和えて出来上がりである。

レシピ3: スルメイカ刺身

ほかもさんが、Blogで美味そうな季節のスルメイカを3ハイも料理したので、ついつい、2ハイ購入してしまった。今回は墨袋は勿体無いけど、捨てた。胴体?は乾いたふきんで皮を剥き、汚くなったので、ふきんは捨てる。足は目玉と嘴を切り捨て、フライパンで日本酒、砂糖、醤油、生姜おろし、を投入しだし汁も少し入れ炒める。というか、煮る。

レシピ3: 薩摩揚げ

薩摩揚げが食べたくて、野菜と天ぷらの3枚を購入し、オーブンで再度焼く。半分は、生姜卸と大葉を刻み醤油をかける。半分はニンジンとグリーンピースで煮物にした。昆布を切り、出汁を作りそこに薩摩揚げを1センチ幅で切り投入し、ニンジンと煮る。残念ながら牛蒡が無くて無念なり。日本酒を多量に投入し、砂糖と醤油で煮る。

レシピ4: レタスサラダ

実は、焼肉を用意してるので、サラダが必要である。レタスを3枚ほど剥き、手で切断しフランスで購入した遠心分離機に投入する。これは、中に網のザルのようなものがあり、蓋をしてハンドルを廻すと中の駕籠が回転し、葉っぱの水が飛んでくれる。便利なり。わざわざ、数年前にパリで購入して持ち帰った。

レシピ5: 冷奴

これは、美味しそうな小さな冷奴用の豆腐が販売されていたので、購入。生姜とオオバを切り載せた。

焼肉は娘ドモに任せ私の仕事は終了した。ホンマ4時頃から買出しと製作で2時間以上はついやした。疲れた。
けど、どれも、美味であると思う。デザートはスイカである。
2005_06120004ミサヨも帰国してるので、次女が高田馬場のケーキ屋から持ち帰る。何か、サンドウィッチみたいなケーキである。不思議である。

お詫び; 大事な二箇所で誤りがありました、ふうてん殿より指摘があり訂正しました。ヤリイカはスルメイカの誤りでした。そして、ポテトサラダに入れる胡瓜は薄切りです。言葉を間違えました。製作したのは、スルメイカであり薄切りの胡瓜どす。猛暑にて頭が少しでした。

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イワレ彦と 磐と柏信仰

イワレ彦(神武天皇)は南九州の地を出発し瀬戸内海を東征し、大和の畝傍山の麓の橿原の地に宮を開いた。

以前より、疑問に思うのは以下二点である。
・何故イワレ彦と呼ばれるのか?磐余の地は土地の名前であり、本来の九州時代の名前ではない。
・何故に柏(カシ)の森に宮を築いたのか。

(南九州の磐信仰)

先日、テレビを観てると霧島講の番組に出会った。歴史は500年位だそうだが、霧島山を神と崇め御神体の溶岩を祠に入れて、講の人々が1年単位で自宅で保管しお祭りする。御神体は溶岩である。活火山の霧島山は古来、火の火山弾を飛ばし、溶岩が人々が住む平地を襲った歴史を持つ。

昔の日向の地は鹿児島の大隈半島も含んでおり、所謂、隼人の地も日向と呼ばれたそうである。神武さんの故郷では怒り狂う火山弾には神の怒りと考えた信仰が存在したのではないか?と、推測するようになった。そういえば、神武さんより、先に大和入りをしていた物部氏の祖先も磐船で交野は私市に降臨している。

そして、薩摩の古い歌の”君がよ”のさざれ石が巖となる歌詞も巌信仰であり、国歌になっている。磐に神が宿るという信仰は多分、世界共通の古代の思想だと思うが、活火山の火の玉だと考えそれが、冷えて鎮まり磐となる姿はまさに神が宿ると考えて不思議はなさそうである。天の磐船とは怒り狂う神が天空を飛び、落下して神として鎮まる姿と解釈すると、理解がし易くなった。

(柏にまつわる理解)

イワレ彦は大和に入り、出雲系の三島におられた製鉄集団の娘であるヒメタタライスズ媛を皇后にした。そこで、橿原神宮の場所に宮を構える。畝傍山の麓である。

この橿原神宮は明治になり、建造された新しい神社であるが、私はその土地の名前が昔から、何故、橿原か?と疑問を抱いていた。カシワデ(拍手)を打つという神御霊を降臨してもらう行為もカシワである。仁徳さんの磐之媛も熊野迄わざわざ、柏の葉を神事のために採りに行く。

確かに、柏の葉は古代の食事では必須な道具であり、米を蒸す場合も必要で、食器として柏の葉の上に御飯とか肴を盛った。熊笹と同様に強い殺菌作用があり、衛生的だそうだ。膳部(かしわべ)という有力氏族は天皇の台所を担当した部である。聖徳太子さまの奥様もそうでしたね。

天子が口にするものには神が宿る必要があります、しかし、これだけの理由で柏は神聖視されたんでしょうか。疑問が残りますね。

私が、最近考えている仮説は製鉄及び武器製造との関係です。

神武さんが製鉄業者の娘を皇后にしましたが、製鉄の原材料の確保が必要です。鉄の鋼材は南朝鮮のカラの国から輸入し、または、砂鉄です。問題は膨大な良質の木炭の確保です。1トンの鉄を作るのに一山の木を切り倒すそうです。

木炭でも冶金に使う良質の硬い堅炭の原材料の木はアラガシ、シラガシ、ウジロカシというカシの木なんですね。
当時の製鉄技術に於いては、カシの木が石油以上に大事であったようです。

今回は磐信仰と柏信仰について少し、考えてみました。推測の域をでませんが現代の信仰のルーツを探る旅は楽しいです。


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鎮守の森論 宮脇昭老師

NHK教育テレビでは6月7月と”日本一多くの木を植えた男”宮脇昭さんの番組が放送される。本屋さんで、教科書を買い、読んでみた。

現在77歳、日本全国で1220箇所、世界中で1500箇所以上もの森作りを行い、現在も精力的な活動を続ける。ドングリから苗を作り、その土地にあった樹種を混植・密植する植樹法は”宮脇メソッド”と呼ばれるそうだ。横浜国立大学名誉教授。

(潜在自然植生の概念)

私は植物には知識が殆ど有りません、友人の鎌倉さん(Bee)は専門である。しかし、この老師の本を読んで、大きな感動を受けました。どうやら、日本という国は中部山岳地帯と北海道を除くと常緑広葉樹林帯であるそうだ。
北海道は落葉広葉樹林帯であると。針葉樹林帯なんて本来、2千メートル以上の本土の山の上以上なんですね。

なのに、お金に目が眩み針葉樹である、ヒノキや杉やマツを植林したのです。そして、海外の材木が安くて輸入し、日本の針葉樹の森は放置され、日本の山は無残な状況になっているんですね。もともと、針葉樹なんぞは存在しない日本列島ですから、花粉症なんぞは無縁だった訳ですね。

生きてる緑の集まりを”植生”と呼び、それに単位性をもたらす時は”植物群落”というらしい。そこで、概念の話になるが古代の原植生に人間の干渉がされたものが、現在植生と呼び、一方、人間の干渉がされなかった、ただ時間が経過した現在のものは”潜在自然植生”と呼ぶ。

現在のその土地の自然環境の総和が支え得る、理論的に考え得る植生というのが”潜在自然植生”と定義する。
難しい話は専門家に任すとして、例えば雑木林は潜在自然植生ではない。常に、人間の干渉が入らねば存続が出来ない森である。

(本物の森の例)

先生は浜離宮の恩賜庭園を掲げておられる。この庭園は江戸時代は徳川将軍家の鷹狩場として一面の芦原であったそうだ。以降、歴代の将軍は造園、改修工事を繰り返し周りを樹林で取り囲むようにした。ここには250年以上前に植えた常緑広葉樹(照葉樹)のタブノキ、スダジイなど生きている。

”本州太平洋岸の土地本来の主役の樹木は、殆どがシイ、タブ、カシ類などの照葉樹だ。この浜離宮周辺も、かつてはそのような樹林帯で覆われていたが、永い年月をかけた人間活動の影響により、これらの森は失われてしまった。

都内では本物の森と呼べるものは、スダジイを主木とする白金の自然教育園の森や皇居の周りなど数えるほどしかない。本物の森とはその土地本来の森、と言い換えることが出来る。”

健全な森は、高木層のタブやスダジイが主木として存在し、亜高木層のシロダモ、モチノキ、ヤブツバキ等が存在し、そして低木層のウツギ、アオキ、カクレミノ、ヤツデ等々が存在し、そして最後に地べたには草本層が存在する。これが健全な本物の森だそうだ。

(鎮守の森の成り立ち)

日本人は稲作が伝わると、田圃を作る為に又集落を作る為に自然に手を加えてきた。しかし、自然は残したのである。それが、鎮守の森である。神さんがいるので、人々は木を切ることが出来ない、素晴らしい考え方である。
生態学的にみて多様性に富んでおり、樹種はその土地本来の樹木である可能性が高い。

そういえば、古墳は小さいながらも、鎮守の森である。タイムカプセルのように高木、低木、草が生い茂り古代の自然を伝えている。日本は、古墳とか祠とか神社とかお寺とか、人が手を加えると祟りがあると伝えた思想は森を守る知恵だったんですね。

日本列島の照葉樹林文化は長江流域から東アジアで三カ月の弧をなしている。ここは、草原の文化ではなく、畑作の文化でもない。豊かなドングリという食料を抱え稲作で麦の数倍も単位面積あたり養える豊かな国土である。

最後に、先生の言葉を伝えたい、

”人間がこの地球上で生かされている限り、実は、生態系の主役である緑の寄生者の立場でしか、持続的には生きてゆけない。緑の植物、特に緑が濃縮した本物の森こそ、人間の命の基盤である。”

参考web1

参考web2

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謎の衝立 戦闘機

CIMG0058先日、義理の親爺さんが経営する事務所某所にてスリガラスで出来た大きな衝立を見つけた。横2メータ程度、高さ1.5メータ程度の大きな木枠で囲まれたガラスの衝立である。

飛行機が三機、スリガラスに描かれている。一番下には複葉機の戦闘機か練習機、中ほど左端には単葉低翼戦闘機、一番上に大きく同じく、単葉低翼戦闘機が描かれていた。

CIMG0059この衝立はかの大戦の頃には軍の関連施設か軍の関連者の邸宅にあったそうだ。そこで、私なりにこの飛行機を推理する事にした。

最初は零戦と思ったが、どうも違うようである。先ず、一番大きく描かれている戦闘機は堀越さんが終戦間じかに開発された、局地戦闘機 ”雷電”と結論した。零戦を設計した堀越二郎設計技師が1800馬力の巨大な三菱の火星23型エンジンを胴体中央に搭載した戦闘機であろう。最高速度616キロであり、B29が爆撃に来ると垂直近くの角度で上昇し迎撃する局地戦闘機である。

さて、真中の単葉低翼戦闘機は何だろうか?機首部に特徴がありますね。エンジンカウルも特徴があります。
私の結論はこの飛行機は堀越二郎技師が零戦設計の前に設計した、世界の名機”96式 艦上戦闘機”ではないかとしました。

エンジンは中島の寿4型 680馬力を搭載し最高速度435キロで飛ぶ。この飛行機は未だ引っ込み脚では無いが当時としては最高の戦闘機と評価されたそうだ。この飛行機が無ければ、零戦は生まれなかったと。第二次大戦が始まる頃まで活躍した戦闘機でした。

一番下の複葉機は多分、海軍の練習機”93式 中間練習機(俗称 赤とんぼ)”でしょうね。5589機も製作され世界最大の機数を誇りました。練習機ですね。

共通して言えることは、海軍の飛行機である事が判ります。零戦が描かれていないのが、不思議ですね。お宝探偵団風に推理すれば、もう一枚の衝立が存在し、それには零戦が描かれていたのかも知れません。

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PARFAIT雑貨店 開店

阪急神戸線の”園田”駅の近くの商店街の二階で、開店した、雑貨屋の”PARFAIT"です。フランス語で完全、perfectですね。

駅から3分位でしょうか、途中の商店街はたこ焼き屋さんとか、庶民的な下町の風情です。このお店は二階ですが、全てが心を込めた手作りのお店ですね。オーナーの女性は長く女子高の先生として勤務し早期退職制度で退職されたそうです。(家内の妹さんです)

月曜と火曜は定休日にして、介護、福祉のお仕事をされています。

ふうてん娘もからんでいまして、パリでの古着、雑貨の買い付け、メキシコ雑貨の買い付け、等々を担っています。
是非、園田近辺に来られたらお立ち寄り下さい。

PARFAIT(パッフェ)

お店ホームページ

のりちゃんの闘病日記

尼崎市東園田町5丁目41 武田第一ビル2階
電話 09038273999
営業時間 12時~19時 定休日 月/火曜日
阪急園田駅下車 北側徒歩3分
園田商店街中央、園和小学校東門傍 
武田ビルは”おんどり庵”が目印
オーナー 河上紀子

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今、関西で流行るもの

CIMG0057先ず大阪の下町風景であります。野田、福島という大阪の下町では、自転車に傘を取り付けた人々が行き交う光景に出くわします。商店街ではおばちゃんとかおばあちゃんが自転車に乗り、日傘を自転車に専用金具で取り付けて走っています。

現地の人に聴くと、珍しくない風景だそうです。新しい風俗が又、大阪で生まれたようですね。そういえば、大阪からは今まで多くの風俗が生まれました、ノーパン喫茶、アルサロ(アルバイト・サロン)、は確か関西発祥ですよね。

CIMG0056京都は錦の名物、”生麩”です。これが、餡を生麩で包み、それを熊笹で包んだ美味な菓子です。これは、美味しいですね、京都駅でも販売されてましたが、この錦のお店の”生麩饅頭”が最高だそうですよ。クール宅急便で注文すれば東京でも美味しくいただけますね。

CIMG0052イノダコーヒー本店です。朝食はここで頂くのがふうてん老人とMuの旦那のお勧めです。朝食セットが幾種類か用意されていますので、チョイス出来ますし、又は、好きな料理と飲み物を注文できます。新聞を読みながら、のんびり朝食をとり、コーヒーを飲む至福の一時ですよ。


CIMG0042京阪電車三条駅の風景です。弁慶と牛若ではないですか?確か、五条の橋だった記憶ですが、三条の駅にも飾られています。NHK大河ドラマ”義経”は私も毎回欠かさず観ています。


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W杯 天王山バーレーン戦

あと、数時間後には敵地、バーレーンにてW杯予選の天王山の戦いがある。

残念なのは、小野君が昨日の練習で不慮の足甲の疲労骨折で戦線離脱した事である。これで、今までの戦略は全く変える必要がある。中田が小野の代わりでボランチである。中田の代わりは小笠原である。

アウェーでの戦いであるので、DF陣とボランチの責務は多大である、小野がいれば安心であった。しかし、攻撃の魔術師である中田を下げねばならず、厳しい布陣となった。

DFは多分、中沢、宮元、田中であろう、智将でイケメンの宮元が守りの要であり、野人の中沢が相手を潰す。
ボランチは福西と中田が守りの要を固める。そして、前線へ攻撃のパスを配給する布陣であろう。

左サイドバックは三都主(サントス)で、右サイドバックは加地である。そして、前線のトップ下に小笠原と俊輔が布陣し、ワントップで柳沢である。FW陣が怪我で人材を欠き、今、日本代表はFWが危機である。

GKは川口でしょう。ジーコは海外で苦労した選手を起用する、それは彼の過去の海外での苦労がそうさせているのかも知れない。海外に出て、他国で自分の力で飯を食うことがいかに大変であるか?彼は、知り尽くしている。

さて、数時間後の戦いはどうなるか?兎に角、二位争いであるので、バーレーンに負けてはいけない。最悪で引き分けにしないと危険信号が燈る。俊輔が囮となり、他の選手が抜け出して欲しい。

さて、戦いのあと、又、続きます。暫く、休憩ですね。

(結果 日本1点入れ勝利)

中田ヒデから俊輔への鋭い縦パス、俊輔のダイレクトヒールパスそして、小笠原がゴール前でヒールパスを受け
シュート。俊輔のヒールパスに柳沢が左に走りこみ、俊輔が右に走り相手DFを分断し、中央にスペースが一瞬出来たのが成功の原因。

しかし、これで勝ち点9であり、イランが10点で日本は二位で、三位のバーレーンは4点と差を拡げた。二位まではW杯に行けるので、これで天王山は越えた。

しかし、累積警告で次回は中田ヒデ、俊輔、サントスと三名が出場停止であり、厳しい。

中田ヒデのキャプテンシー(実質のフィールド監督)は素晴らしいものがあった、素晴らしい試合であった。しかし、観るのも、応援するのも疲れた~~~~。

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磐之媛 民間第一号皇后

磐之媛さんは仁徳天皇さまの皇后で皇族ではない民間(葛城曾都比古、襲津彦、そつひこ)の娘です。記紀ではヤキモチ焼きのプライドの高い女性として数多くのエピソードが記述されているが、謎が多い。

今日は、ほかもさんが磐之媛の古墳のお傍にご在住で、且つ、記事を書かれましたので、この際、私の疑問とか謎とか意見をまとめました。又、関連して私も過去に恋敵のお兄さん宇治天皇(兔道稚郎子うじのわけいらっこ)について、記事を書き、MuBlogでも記事が御座います。

和邇氏関連は”心の故郷北河内 目次篇”参照

(疑問と謎の数々)

 何故に嫉妬深く磐之媛は記紀に書かれたのか?

皇族でもない磐之媛が皇后として存続するのを阻もうとしたのは、八田皇女(宇治稚郎子の妹)で最大の敵であった。仁徳天皇は応神天皇が身罷れたあと、皇太子であった(天皇であったという説、宇治王朝説、)宇治稚郎子を
自殺に追い込み王権に就いた。兄弟同士の戦いでした。

応神天皇は宇治の木幡に住む和邇氏の母を持つ稚郎子と同母妹の八田皇女を愛したそうです。だから、皇太子にして、後継ぎに指名したわけです。しかし、兄貴のオオササギ(仁徳)は彼を自殺に追い込んだ。

稚郎子の廻りには渡来系の学者が多く、アチキ(阿直伎)から儒教を学び和邇(王仁)吉師から皆さんも中学か高校の歴史で学ばれた、有名な”千字文”を直接教授された。当時の南山城から私の故郷の北河内の木津川、淀川、宇治川のハイウエイの十字路は巨大な勢力と大陸の先進文化の華が咲き誇っていたのです。

オオササギ(仁徳)さんは難波が拠点、大和川水系と大和を支配していた葛城氏(ソツヒコ)と連合し宇治の政敵を倒したわけです。だから、磐之媛が皇后に納まれた訳ですね。しかし、政敵打倒後に和邇氏の猛反撃に遭遇したと想定されます。

和邇氏(王仁)は渡来系ですが、神功皇后の出身の息長氏も和邇氏側につき日本海から琵琶湖経由、で瀬戸内海ルートの仁徳政権に対峙したと、私は予想します。元々は宇治、木幡、は息長氏の拠点でした。

私は、磐之媛は紀伊から熊野灘迄、遠征し水軍を率いオオササギ(仁徳)天皇を助太刀する行動にでたと思います。難波、大和勢力に紀伊、熊野水軍を味方にオオササギ、磐之媛連合は宇治王朝を支える豪族、水軍連合と全面戦う局面を創りだした。

しかし、旦那のオオササギは宇治の豪族連合と話し合い、稚郎子の妹の八田皇女を皇后に迎える条件で全面戦争を回避したと思います。皇族ですし、和邇氏、息長氏、山城、日本海連合豪族は休戦に合意した。

(磐之媛の戦い)

磐之媛には男の子供だけで4人も既に存在したのですね。何としても皇后の位を譲る訳にには行かない、又、地盤勢力の葛城氏を守る事も重要である。磐之媛は私の故郷の近くの筒城宮に水軍を率いて駐屯し、木津川と宇治川の敵の勢力拠点に睨みをきかせた。(当時、筒城は朝鮮半島の移住者が住み朝鮮半島担当の葛城氏には友好的な韓人が多く居た。彼女はヌリノミ(奴理能美)の館に布陣した。)

彼女は最後まで駐屯地を動かず、和邇氏と息長氏、八田皇女を牽制し、駐屯後、4年ほどして亡くなる。遂に、生きてる間は皇后を譲らず、彼女の死後、八田皇女は皇后になった。しかし、オオササギとの間には皇位継承をねらう子供は存在しなかった。(考古学の森先生は何らかの手段でそのように誰かがさえたのでは?と言う)

磐之媛は死後、自分の故郷である葛城ではなく、政敵、和邇氏の拠点である大和北部の乃羅山(ならのやま)に葬られた。

遂に、三人の息子はその後、履中天皇、反正天皇、允恭天皇となり河内王朝の繁栄を築くのである。そして、雄略天皇が出現するまでは葛城氏から天皇家に嫁を出す大勢力となり、磐之媛の戦いは報われたのです。

(母は強し、政子も強し)

しかし、当時の女性は強かったんですね、神功皇后も凄いけれど、民間人から皇室に入り、軍まで組織して戦う。わが息子達の行く末と葛城氏の安寧を願い戦ったんですね。何か、現在放映中のNHKの大河ドラマの北条政子はんみたいですね。

気になる事として、考古学の森浩一先生は応神天皇と仁徳天皇はじつは同一人物ではないか?
一人の歴史をニ分割した形跡が多く疑いがあると言われています。最大の理由は応神天皇の陵、お墓ですね
その記述が記紀に存在しないそうです。これが、奇妙であると。

葛城氏はその後、ワカタケル大王(雄略天皇)が王権の強化を狙い葛城氏を攻め滅ぼし、連合の吉備の豪族も攻め滅ぼしました。しかし、専制の王権は長く続かずに武烈天皇のあと応神天皇から創始された河内王朝は滅び、息長氏、和邇氏が政権基盤の継体天皇が越の国、若狭湾から琵琶湖、宇治川、木津川、淀川を制圧し樟葉の宮で即位しました、そして磐之媛が駐屯した筒城宮に政権を樹立したのです。

悲しい、宇治稚郎子(宇治天皇)を鎮魂するために、実は”源氏物語 宇治十帖”が書かれたと言います。モデルは稚郎子だそうです。人々の記憶に平安時代まで残っており、語り継がれた悲劇の皇子(天皇)だったんですね。


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