母校 枚方第三中学校
最近はオホーツクの哲ちゃんが、昔懐かしい故郷の学校の話をするもんで、ついつい、私も少し回想してみたくなりました。今回は中学時代を採り上げてみたい。
最初の一年は隣駅の御殿山の駅近くにある渚という場所の枚方第一中学校であった。自転車で通学で30分から40分はかかったと思う。牧野から車塚古墳を経由して御殿山丘陵を登る、これが辛かった。帰りは下りなので、楽だが朝が厳しい体育会の世界である。冬は特に辛い、ハンドルに袋のような物を取り付け手を中に入れる。耳には兔か狸の毛で出来た耳覆いをつけた。
二年生からは、新設の第三中学校が牧野と樟葉の中間地点に出来た、徒歩15分でゆける、嬉しかった。養父という地名である。
(一澤万吉先生)
先生は30代前半だっと思うが熱血漢の国語の先生が担任になった。私の中学時代の全てはこの恩師の影響を受けたと思う。厳しい先生でした、殴りはしなかったが怒るとそれに近い行動をとられた。しかし、根は優しい人でなにかと可愛がられた。
しかし、最後まで”国語”は苦手なままで終わった。
むしろ、山登りを教えて頂いた。社会科の林先生とワンゲル部を創設し近畿地方の山に連れていただいた。金剛山、大台ケ原、高野山、伊吹山、比良山、等々である。大きなリュックを背負い、飯盒で飯を炊く、そしてテントで宿泊する。この楽しみがその後延々と続く事になったわけです。
先生は生徒会の役員に立候補しろと命令され、一番苦手な会計をやらされてしまい、お昼にはパンと牛乳を販売する羽目になり、毎日、計算が合わない涙の日々が続いた。当時は生徒会役員が販売していた。
時折、牛乳屋さんがコーヒー牛乳を奢ってくれたのが、役得であった。
勉強は諸田先生という男勝りの関東弁の女性の先生がおられ、これが不幸に気に入られ英語の弁論大会にまで出さされてしまった。兎に角、理由は英語の教科書を直ぐに丸暗記するのが得意だったようだ。
英語と理科と数学が得意だったように思う。
35年振りに中学のクラス会が枚方であり、7~8年前に出席し万吉先生に再会した。先生も大層喜ばれ、時間が一気に35年前に戻った記憶がる。女子生徒は数名を除き殆ど最初はわからなかった。しかし、30分も経過すると思い出すのは不思議である。皆様もご経験と思います。
そして、不思議なのは、女性が私を筒井君と呼ぶ事である。君ずけで女性に呼ばれるのは同窓会だけに許される風習である事に気がついた。今だかつて、このクラス会までは女性に君ずけで呼ばれた経験は無かった。
私達は二期生として卒業する事になり、学区制により寝屋川高校か四条畷高校かどちらかであった。四条畷は遠距離であり寝屋川高校に進学した。一番頭の良かった生徒は国立高専に進学した。
え?浮いた話がないのか?
今と違い、当時の中学生はウブでした。まるでなかったのが、残念である。
« 古代の関東 | Main | 磐之媛 民間第一号皇后 »
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- エゾライチョウとクマゲラを見る旅 総括編(2018.07.09)
- 2018年春の渡りの飛島 総括編(2018.07.09)
- 南ゴビ砂漠探鳥紀行(2018年6月15日~20日) 総括(2018.07.06)
- 2017年 春の渡りの飛島記録(2018.05.15)
- 豪州鳥見紀行 ケアンズ・エアーズロック・シドニー チエックリスト(2018.02.21)
Comments
僕も似た想い出があります。
僕の通った園部中学は、入学当時、家から4キロあり、規定で5キロ以上が自転車通学可能と云う事で、約40分 徒歩で通っていました。(3年からは自転車通学できましたが)
3年の時の担任は、Joさん同様に熱血漢の先生で、何度も怒鳴られた事がありますが、結局、この先生に一番世話になりました。
僕は高校の受験に一度失敗したのですが、翌年の模擬試験を職員室で受けるよう、わざわざ連絡頂いたり、本当にお世話になりました。
もう一人はクラブ(写真)の先生ですね。この方にも随分影響を受けました。写真の知識は殆どこの先生から教わり、その後の仕事にも随分役立ちました。
Posted by: Ys | 2005.05.31 09:43 PM
丹波地方ですね
京都からはだいぶ外れになりますが、古代から栄えた重要な
場所ですね。日本海ルートでの重要拠点ですよね、確か古代
より豪族がいました、垂仁天皇の御后が丹波ではなかっか?
と記憶しています。
ワンゲル時代にはよく山歩きに出掛けました、篠山ですね。
栗、黒豆、牡丹鍋、有名ですよね。
4キロを中学時代に歩いて通うのは大変でしたね。しかし、きっと
何かの役にたちましたよね。
Posted by: jo | 2005.06.01 08:08 AM
そうですね。いい想い出です。
よく雪も降りました。(皆な 霜焼けでした)
丹波と云えば、なんと云っても"マッタケ"ですね。
昔は腹一杯食べました。丹波盆地も大昔は湖だったそうです。
土は赤土で、丹波の名前の由来だそうです。
他の名物は、"霧"と"ツレションベン"ですね。
"老の坂"を越えると亀岡ですが、冬は11時頃まで、霧が晴れません。一人がトイレに立つと、オレもオレもと後に続く。
主体性が無いんですね。
ところで、Joさんの故郷、招提村は 枚方のすぐ近くなんですね。北河内郡と云うので てっきり八尾のほうかと思っていました。枚方のほうへ引越して来られたものと、……
意外と近くでした。
Posted by: Ys | 2005.06.01 09:36 AM
古代の丹波 丹後半島
朝鮮半島との交易で栄えた地域ですね。昔、丹後半島にも
立ち寄りましたが、古代の製鉄所遺跡が沢山有ります。
大学時代のワンゲルの先輩にマンガン会社の社長の息子
さんがおられました。丹波はマンガンでも有名ですよね。
新羅系統のハイテク移住者たちが切り開いたのでしょうか。
秦氏が有力ですね、このあたりから山城に勢力を張った
形跡があります。
丹波盆地は湖だったんですか?京都よりも穀倉地帯ですよね。
古代は京都は川が氾濫する湿地帯でどうしょうもなかったん
でしょうね、だから、最初は丹後、丹波が栄えた。
歴史の古い場所ですね。
故郷の招堤村(しょうだいむら)は南山城、北河内、奈良と
接する場所です。古代には栄えた場所です。
Posted by: jo | 2005.06.01 10:28 AM
Joさんのワンゲルの原点は、中学時代にあったんですか。
一度山登りにはまったら、やめられないとは聞いたことがありますが、中高大と続けて、山小屋まで建てられたんですから、大したものです。
枚方第三中学のHPを見てビックリしました。今は中間も期末もテスト範囲がネットで検索できるようになっているんですね。やっぱり大阪は進んでいるなあ~と感心しました(笑)。
Posted by: wd | 2005.06.01 04:59 PM
Joさん
丹波町はマンガンの産地でしたね。今も廃坑があります。
とくに戦中は採掘が盛んで、戦渦の激しい頃、ドイツはマンガンが不足しており、わざわざUボートで取りに来たと云う話があります。
綾部や園部の地名は、特殊な技術を持った部(べ)の民
(たぶん渡来人)がいた名残りだと聞きました。
Posted by: Ys | 2005.06.01 05:27 PM
wdさん
山歩きの原点はボーイスカウトかも知れません、けど、中学時代の万吉先生、林先生指導のワンゲルが本格的なキャンプ生活の楽しみと山登りの厳しさを教えていただいと考えています。
教育とは勉強を教えるのではなく、子供に感動を体験させる事ではないかと思います。そういう意味で中学時代は楽しく且つ厳しい生活空間でした。
Posted by: jo | 2005.06.01 06:19 PM
Ysさん
そうなんですよ、丹波、丹後半島は遥か大和が開ける前から文化の華がひらいた場所です。
綾部、園部という位ですから、特殊技術を持つ集団が存在したんでしょうね。それは鉄鋼技術と織物でしょうね。
当時はハイテクだったと思います。丹波から南下して宇治周辺に拠点が出来たと考えています。(京都は湿地帯で住めない)
ここで、宇治、木幡、八幡、という私の故郷が大和朝廷を動かす大きな勢力になると考えています。交通の中心地点ですね。
Posted by: jo | 2005.06.01 06:29 PM
そうですか。丹波の認識が 大分変わりましたね。
園部町から篠山へ向かう途中、黒田と云う集落があり、森蘭丸が居たと云う城跡が有ります。そこには、森と云う姓が多いのです。
最近のネットから得た情報では、JR園部駅の近くに小山と云う地名があるのですが、平安時代、ここに城があり、その城主の娘が 義経の子を生んだと云う説があります。古くから、有力な豪族がいたのですね。
Joさんに 男山に住む友人のサイトを紹介します。
僕の専門学校の先輩で、実家は六地蔵、プロのカメラマンです。毎日、画像日記を続けていまして、プロだけあって、写真の切り取り方は素晴らしいです。
Joさんの故郷の風景も有ると思います。
一度ご覧下さい。
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/ikko-nagano/
Posted by: Ys | 2005.06.01 10:01 PM
Ysさん
素晴らしい写真の連続ですね。感動があります。
静止画というのは、人に感動を与える事が出来るんですね。昔よく、ふうてん老人と議論しましたが、私は黒沢監督の映画はJPEGの静止画の連続のような感じがするんです。決してMPEGではない動画だけの世界とは違う気がするんですね。
動いているものを静止させる力、これが感動を得るのでしょうか。
私達の赤とんぼのクラブでも記録映画を製作していまして、昔は8ミリで片面のトラックにはあとで音楽を入れ、編集をして製作をしていました。
感動の場面は写真を8ミリで接写して、動画の途中で静止画をはめ込む手法を採っていました。映画の最後には必ず、回想場面を写真で締めくくりましたが、これが印象に残りますね。
さて、義経さんですが、おなごさんは沢山おられた様子です、不思議ではないですね。
Posted by: jo | 2005.06.01 10:55 PM