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世界の老後生活観 独断編

先日、新聞か雑誌かテレビか忘れたが、60才以降の生き方についての、世界の国々の人々の意見統計に触れた。
どうやら、60才以上でも働きたいと答えたのは、日本人だけらしい。

(司馬さんの説)

そういえば、思い出すのが司馬さんである。中国、朝鮮半島の国々は儒教の影響を強く受けた、従い、教養のある男子は箸より重いものは持たない。肉体労働を忌み嫌う風潮が存在するという。特に現世のお金を扱うのは嫌う習性があると。

日本は中国から文化文明の影響を大きく受け入れた民族であるが、儒教が根ずかなかった。イデオロギーに支配されなかった。律令国家体制が崩壊し、一所懸命の武士が台頭し、自ら生産に従事するを美徳とする思想が根強い。

日本の明治以降の世界での飛躍も、第二次大戦以降の飛躍も実は、この、一所懸命の労働を美徳とする思想が支えたと司馬さんは言う。指導者が働くという思想である。

(台湾の女性社長)

そういえば、昔、台湾の故宮博物院との仕事でお付き合いした、台湾の会社の社長(総経理)は女性であり、旦那は会長で芸術現場の指導をしており、会社の切り盛りは奥様でした。女性がお金と経営という現場を受け持つ、旦那には大人(たいじん)としての儒教にのっとる崇高なる職務をしていただく思想である。

(米国での事例)

私は、一時期、西海岸のシリコンバレーという起業家が集う米国でも屈指の場所で仕事をした。彼らの目標は40才迄に一生暮らせる金を獲得する事である。40才以降は第二の人生を送るのである。私は、ホリエモンさんを観てると、日本人でも米国の西海岸の連中と同じような考えの人がいるんだな~~と思う。

日本人と米国人は無茶苦茶働くという印象がある。しかし、米国人は若い頃だけである。歳をとっても働くのは、一部の例外(巨大伝統企業の会長)だけであり、多くは、悠々自適の生活をする。これは、キリスト教と関係があるのかも知れない。

(フランス人)

彼らは週に35時間しか若い頃から働かない。豊かな国土に恵まれ、生活費のために人生は曲げない。何のために仕事をするのか、常に考える。自作自農で食料は確保して、仕事は自分の考えで何のために農業以外をやるか?
ここが、日本人には理解に苦しむ世界である。というか、羨ましい世界である。日本は80%が山で覆われている。

彼らは、定年を心待ちにしている、指折り数えて、その時が来るのを待つ。ある人は船を買い、老後を船旅で過ごす。
ヨーロッパに張り巡らされた運河を彼らは余生の棲家とするのである。

(日本ではどうか)

日本では、事情が異なる。少子化が進み若者が激減しているのと、高学歴化により働く連中が急激に減少している。ここが、フランスと異なる、彼らの国では子供達が増えている。日本は深刻である。

団塊の世代が引退する時期に直面している。しかし、彼らがGDPを維持するには欠かせぬ、労働力になっている。でなければ、アジアからの移民をどんどん受け入れる法律を作らねば日本は今後なりゆかない。既に、日本の農家では事実上、移民が、始まっている。

(私が最近惹かれている事)

私は、将来は今までお世話になった海外の人々に役にたつ事をして、人生を終わりたいと考えている。長期滞在ステーを考えている。アジアでは月に10万もあれば、住宅費用、食費、遊興費込みで過ごすことが出来る。

日本の外交政策としてお金だけで、海外に協力するのではなく、団塊の世代を巻き込んで、人+金+心、で外交をして欲しいと思う。有能な団塊の世代が多く引退を始めている、勿体無い、もっと海外で日本のため、海外の国の人々のために活用すべきである。

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(故)筒井六広君 追悼の辞

昨夜 恵比寿の”We”で同窓会をしている時に携帯に哲坊からメールが入り、筒井六広君の身罷りの報を受けた。
月曜日がお通夜だそうだ、三島だけど、是非ともお別れに会いに行きたいと考えている。

(彼との出会い)

私がシリコンバレーに赴任したのが、1982年の1月であるが確か、彼は1年後位はあとに千谷さんの後任として東海岸のニューヨークに赴任して来た。私よりは4~5才若いと思う。優秀な明るいソフトウエア・エンジニアで有りました。

前任は同期の千谷さん(現在 日本大学三島の教授)でありまして、豪快な方で私が、ニューヨークに出張すると激論を戦わせ、論戦を挑む硬派でありました。この千谷さんとは実は未だ時効にならない大事件があり、何れ、密やかに歴史を記述したい。この事件は社外に当事者がおられ、日本中が大騒ぎになった事件の引き金を千谷さんは仕掛けました。私には当事者として苛酷な運命がその後、襲いました。

六広君は明るく、優しい、常に冷静でそれでいて、ユーモアのある素晴らしい人物で有りました。前任の粗野な親爺と異なり、紳士であった。西海岸のシリコンバレーでも彼の歓迎会を挙行し、本多副社長を始めソフト仲間の中尾君、池田君、林君、CEの宮井さん、ハードの松村君、等々で歓迎会をした。

(二人の筒井)

その後、西海岸に筒井、東海岸に筒井jr(ジュニアー)という布陣で米国をカバーする事になった。日本側ではどちらの筒井が活躍してるか、時折判断が出来ず、影武者というかお互いの成果は自分のものになり、一人の大きな筒井駐在員という虚像が出来上がった。

同時期に筒井は西海岸に出没し、又、東海岸でも活躍する。まるで、役小角(えんのおずぬ)のような大活躍であった。時折、サボッテいても、もう一人が活躍するので、目立たないのである。日本は遠いので、判らん訳です。

私達は週に最低4~5人の日本からの出張者とは会うので、月に20人くらいとはお会いする。年間で250人位にはなるでしょう。東海岸の筒井jrも同じ程度お会いしてるので、二人合わせて500人である。

日本に帰国後、富士通の色んな部署の方が米国でお世話になったと、申される。半分は筒井jrと間違われている。

(その後)

彼はその後、数年のニューヨーク駐在を終えて、帰国し、再度、今度は西海岸のシリコンバレーに赴任した。私は国内の仕事が忙しく西海岸で彼と会う機会はなかった。

今日も、ふうてんさんより自宅にメールが来た。彼の死についてである。古(いにしえ)より人は言う、いい奴ほど早く身罷る。残るのは?ですね。

筒井六広君の死は早すぎました、50を過ぎた頃でしょう、これからの時に残念でならない。無念である。

(追記)

今手元には、今年の正月に受け取った、彼からの年賀状がある。何時もは版画の賀状であるが、今年は、版画風の家族の絵である。

本人と奥様、下には、眼鏡のぼくちんと、娘さんの顔である。明日は、この賀状を持参で別れの挨拶に行く。

(追記)

通夜模様 元ニューヨーク駐在員集合

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富士通 オンラインの歴史

私の手元には富士通のオンラインシステムの開発の”宿老”というか、氏神様と呼ばれた三浦亮一翁が記録された、一冊の約200ページの本がある。

”富士通における オンラインシステム開発の覚書” 開発の経緯編 
著者: 三浦亮一
平成15年10月 発行(非売品)
発行元:(株)富士通ハイパーソフトテクノロジ
      〒222-0033 横浜市港北区新横浜2-4-19
電話 045-475-5600

(著者略歴)
・昭和40年(1965) 1 月 富士通入社
・昭和63年(1988) 10月 宇都宮富士通 社長
・平成5年(1993) 6月  富士通神戸エンジニアリング 社長
・平成12年(2000) 12月 富士通ハイパーソフトテクノロジ 
・平成15年(2003) 6月   同 退職

(目次)

第1章 FACOMオンラインシステムの始まり
 1.1 第1期 専用ハード・ソフトの時代
 1.2 第2期 汎用ハード、専用ソフトの時代
  ・データ通信システムと汎用電子計算機
  ・オンラインシステム
  ・FACOM230-30 オンラインシステムのソフトウエア
  ・FACOM230-30 オンラインシステムの開発と稼動
  ・講話録 八十二銀行システムの開発
 1.3 第3期 汎用ハード、OSの出現
  ・FACOM230-50とMonitorⅣ
  ・地銀システム
  ・地銀システムセンタソフトウエアの構造設計
  ・マルチタクスク構造
  ・非常駐プログラム制御
  ・ファイル管理と障害対策
  ・リカバリ
  ・総合テストと負荷テスト
  ・オフライン処理インターフェイス
  ・オンラインユーテイリテイ
  ・プログラムの開発と管理
  ・講話録 地銀システムの開発
 1.4 第4期 オンラインパッケージプログラムの開発
  ・制御プログラムと業務処理プログラムの分離
  ・第一銀行オンライン預金システム
  ・中原啓一 ”データ通信システムの展開”
  ・講話録 第一銀行オンライン預金システム

第2章 F230-60システムと多次元OS MonitorⅤ
 2.1 F230-60 マルチCPUシステム
 2.2 多次元OS MonitorⅤの出現
  ・OS 一般規約とマルチCPU制御
  ・OSの基本機能

第3章 オンラインコモンパッケージ(COP)の開発
 3.1 オンラインシステム開発の標準化
 3.2 MonitorⅤとCOPとの関係
  ・オンライントランザクション処理とOSの多重JOB処理 
・OS一般規約
  ・マルチCPU制御
  ・スーパバイザーインターフェース
 3.3 COPのプログラム構造設計と機能
  ・COPの多様化
  ・COPシステムの構成
  ・PFMとPDAS
3.4 電電公社加入データ通信サービス販売在庫管理システム(DRESS)の開発
  ・サービスの概要
  ・即時処理系システムのプログラム構成
  ・性能評価
 3.5 MonitorⅤ COP-Fの開発
  ・第一次総合オンラインシステムの要件
  ・COP-Fの構造設計
  ・MonitorⅤ COP-Fによるユーザシステムの稼動
 3.6 処理能力の追求と性能評価
  ・待ち行列のシステムモデル
  ・FMIX-R
・性能見積り或いは評価の手順
 3.7 FACOM 230-60 1.87μsの衝撃

第4章 オンライン専用モニタM60の開発
 4.1 極限性能追求と処理能力の確保
  ・M60 の目標
  ・オンライン専用化による高性能の実現
 4.2 加入データ(DRESS)のM60 COP-Sの開発と移行
 4.3 第一勧業銀行の誕生
  ・合併の報道とシステムの対応
  ・統合システムの構築とM60 COP-Fの対応
 4.4 全国銀行データ通信システムの開発
  ・地銀システムから全銀システムへ
  ・全銀システムの要件
  ・実現のためのシステム構成と特徴
  ・システムプログラムの対応(M60 COP-Mの開発)
  ・処理能力問題

第5章 F230-75 MonitorⅦ COP-Fと第二次総合オンラインシステムの開発
 5.1 背景と新システムの基本的条件
  ・DKB第二次総合オンラインシステム
  ・太陽神戸銀行(TKB)の発足
 5.2 F230-75アーキテクチャと汎用OS Monitor Ⅶ
  ・F230-75システムの特徴
  ・MonitorⅦの構造と特徴
 5.3 基本性能の算定
  ・科学技術計算用のデータ
  ・M60トレースデータによるシュミレーション
 5.4 高信頼度システムの構築方式
  ・高信頼度システムの構築要件
  ・コンピュータコンプレックスとCCA結合
  ・アクセスパス2系統方式とRAS機能
 5.5 MonitorⅦ COP-Fの構成と機能
  ・開発方針
  ・OS概要とCOP-Fとの関係
  ・システム間共用ファイル制御
  ・システム間通信機能としてのCCA制御
  ・RAS機能とFRS(Failure Recogunition & Support)
・COP-Fの構成と機能
  ・オンラインデータベースシステム
 5.6 開発のためのサポートツール
  ・システム開発サポート
  ・システム編集・運用サポート機能
  ・システム評価サポート機能
 5.7 性能評価
  ・性能評価の基本要素
  ・性能評価技法
  ・MⅦ COP-Fの性能評価
  ・ユーザシステム(DKB HOPS)における性能評価
  ・MⅦ E006/XE10システムの性能評価
  ・F230-85 MⅦ COP-F E10/XE20の性能評価
 5.8 オンラインソフトウエアの開発管理と品質の確保
  ・大規模オンラインシステムのベーシックソフト開発と特徴
  ・ソフトウエアの信頼性と品質の確保
 5.9 F230-75 MⅦCOP-Fによる第二次総合オンラインシステムの稼動
  ・第一勧業銀行第二次総合オンラインシステム稼動
  ・太陽神戸銀行新総合オンラインシステム稼動
  ・NTTデータ通信サービス全国信用金庫共同データ通信サービス稼動

第6章 電電公社DIPSシステム開発への参画
 6.1 DIPS加入データサービスの開発 
 6.2 通研160RTPの開発
 6.3 データ通信本部のDIPSシステム開発の対応
 
第7章 Mシリーズオンラインソフトウエアの展開
 7.1 AIM DB/DCシステムの開発
 7.2 AIMによるオンラインバンキングシステムの実現

(JoBlog 解説)

・この資料は富士通のオンラインシステム開発の歴史であり、且つ、日本の大規模オンラインシステムの歴史を記述した技術の歴史である。
・1965年(昭和40年)から1984年(昭和59年)のオンラインの技術の歴史書である。
・現在 三浦宿老は ”第二部 開発現場の覚書編” を執筆中である。

・現在、世間では幾多の大規模システム開発の失敗が専門誌では報道されている。私は三浦宿老の歴史書にはシステム開発の真髄について多く語られている。プロジェクト管理の問題ではなく、心の問題である。

・特に今度、出版される第二部では筆者曰く
 ”我々は何を得て、何を失い、何が残ったのか。次々と湧き起こる問題・課題とその対応の記録とする。技術的資料等では通常オープンにされないシステム開発現場の泥臭い実態について、開発の経緯の実際、開発の内外環境、問題解決のプロセス、顧客対応等の実体験を、エピソードを含め、可能な限り数多く取り上げたい。”

・現在益々、企業にとりIT戦略は生き残りをかけた重要事項である。人任せではうまく行かない。自らが取り組む事をしなければ、打開できない。そこでは、システムの開発が必須となります、そんな時に三浦宿老の話と彼の残された歴史書は必ず役に立つと思います。日本の宝である。


 


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経済合理主義と古代精神文化

日本の歴史をこの歳になるまで、考え続けていると、日本は古代と現代が混在している世界でも不思議な国であると思う。何故このような、精神構造が形成されたのだろうか?

(権威と権力)

私は、日本の歴史は他国には全く存在しない、不思議な国家形態を綿綿と続けて来たと考えています。しかもこの形態は世界に誇れる形態であると評価しています。天皇という権威というか、氏神様を軸にして権力の交代をさせることで国家を内乱から守り、又、外国の侵入を防いだと考えています。

梅原猛さんの説によれば、これを考えたのは藤原不比等であるという。国家は人間という生命体の集合であり、寿命が必ず到来します。その時にどのように、再生するか?何かを軸に回天させねばならない。私は、その軸の役割を天皇さまが、過去千数百年なされてきた。

しかし、藤原不比等以前の古代大和国家においても、豪族に推挙された大王(おおきみ)が和をもって国家を統治した。大王家はもともと強大な権力をもったものではない、と歴史家はいいます。この時から既に権威と権力は分離されていたのではないでしょうか。(巫女さんだという説もあり)

現代の企業という小国家を考えると、権威にあたるのはボードの議長であり、CEOと置き換えても近いかもしれないし、権力は社長でありCOOであるのかも知れない。これには、議論があるので、難しいが大雑把に言えば日本の民族に受け入れられる組織論としては理をえているかも知れない。

(先祖崇拝の民族)

私達は先祖を崇拝しますね、お盆とかお彼岸とか墓参りとか、この基本的な精神的基盤の延長に氏神様の天皇がおられます。実は、生命体としては当たり前の事ですね、先祖がいなければ今の生命は存在しない訳です。DNA信仰と呼んでも不思議はない不滅の真理がここに有ります。

日本では縄文の時代より幾多のイデオロギーとか文明が大陸より移入された。しかし、変わらず存在する根っこはこの先祖崇拝という、極めて合理的で科学的なものが根底にあると考えています。

(神社とは)

古代においては村落には必ず氏神様がおられた。山宮・里宮・田宮とあり先祖はお盆には山宮から降りてこられ、各家庭にお戻りになる。楽しく過ごして又、お帰りになる。この社(やしろ)は森であり氏族の先祖の精神的ランドマークである。

会社というのも同じである、同じ目的の旗の下に集まりし社であるから、会社と呼ぶ。企業理念は神社の縁起である。必ず、祭神は誰か?神社の縁起が存在する。企業も同じである。沿革と呼ぶものがどの会社にも存在する。
沿革は縁起に相当する。

神社は他の集団と戦う集団でもあります。利害対立が発生すると神社の集団は戦いをする。古代より綿綿と神社を中心に連合国家が形成されてきたのですね。その頂点に大王家、天皇家を推挙していた。

(神社は買収できるか)

皆様の家の近くには沢山の神社が存在しますね、過去の歴史に於いて幾多の権力構造の変化と氏神同士の戦いが存在したのです。例えば、私の故郷の近くの磐船神社周辺ももともと物部氏(もののべ)の拠点でした、しかし蘇我氏との戦争に破れ、蘇我氏側に占拠されます。

しかし、神社の祭神が異なるものを受け入れないので、異なる神社が傍に建立されるわけですね。時代とともに栄えた神社が異なります。まるで、会社と同じですね。

さて、ここで、神社は買収できるでしょうか?多分、買収しても金にならないので、非現実的ですが、では会社はどうなのか?異なる祭神を持ち込み、過去の祭神を捨てることは日本民族は拒否をします。ここが、日本の会社を買収する時の日本固有の難しい問題が存在するのです。

合併の場合は二つの祭神を並べれば円満解決になります、これは、神社にも存在しますね。しかし、吸収合併は難しい。何時までも派閥は残る。派閥は祭神が異なるのである。現在存在する人が退社する迄20年程度は続く。

(欧米資本主義と日本民俗)

欧米資本主義における企業とか会社は利益追求の戦闘集団であり極めて合理的に出来ている。しかし、日本は長い歴史が有り、且つ先祖崇拝と神社という精神構造を持っている。企業とか会社というものが、単なる利益追求の集団とは考えない精神構造が欧米人が戸惑うところである。これは、理解を超える世界である。

これが、日本企業の長所であり且つ欠点でもある。私は日本人は海外の人が権力を握り配下で働く事には抵抗が存在しないと思う。カルロスゴーンがいい例である。しかし、彼は日本人をよく分析している。日産という祭神とフェアレデイーという祭神を持ち出してくる、心憎い経営者である。戦後のマッカーサーの統治もそうであった。

日本人は合理的である。そして、超現実主義者である。従い、合理的な原理原則は受け入れる事が出来る。これは、長所である。しかし、古い古代を背負っているのも事実である。

これからは、益々経済面に於いては国際化の波が押し寄せてくる。経済は合理主義である。文明である。しかし、日本には綿綿と続く古代からの精神文化が存在する。そして、聖徳太子さまが決められた、17条憲法の”和をもってとうとしとなす”という銘がある。

今世界では戦争が絶えない、宗教が全てを支配している国というか、部族では経済合理主義は通用しない。しかし、日本人の考えである、経済合理主義と古代の精神文化のシステムは世界を救うかもしれないと思うが如何でしょうか。


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七夕の故郷 交野

私の故郷は古代に於いては、都であったようです。今日は、以前にもblogしましたが、隣村の交野の七夕についてでです。

天の川という名前の川が流れ、星田、星が丘、中宮、星田妙見宮、機物神社、かささぎ橋 等々と七夕に関わる名前の地名が目白押しであります。ここが、七夕発祥の地であることに間違いは有りません。

(参考 Web)

・七夕発祥の地

・織姫と彦星が出会うまち

・七夕行事の歴史

・交野ガ原周回

(星を祭る文化)

七夕の祭りそのものが、中国大陸の文明であると思います。もともと、裁縫が上手になるように女性が祈る祭りが起原だそうですね。それが、恋愛物に変化した。従い、機物神社は意味がありそうです。

此処、交野にはニギハヤヒの命が天の磐船で降臨したと伝えられる磐船神社が有ります。物部氏の拠点であり、物部氏の発祥に関わる場所でもあります。

子供の頃から、天の川という川の名前には不思議でした。かささぎ橋というのも、織姫と彦星を逢わせる為にかささぎ、という鳥が連なり天空に橋を作る。ロマンチックな橋やな~~と、思っていました。

(かぐや姫)

最後は月に帰る、かぐや姫の発祥の地もこの、交野の地から北に向かい京田辺に着けば其処が現場となります。
星と月を祭る日本を代表するお祭りのルーツが私の故郷にあるのです。かぐや姫については、何度も記事を書きました。しかし、日本では星と月に関する伝承は極めて珍しいのです。

如何にこのあたりの土地が異国の文化に影響をうけた場所であるかが、お判りになると思います。

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葛城氏 拠点発掘

昨日、新聞のニュースでは橿原考古学研究所が金剛山中腹の極楽寺近辺にて、葛城氏の重要拠点の発掘をした旨の報道がなされた。『極楽寺ヒビキ遺跡』と命名された。

橿考研調査資料

橿原考古学研究所

(葛城氏とは)

葛城氏は神武東征以前より葛城山を拠点として河内と大和に勢力を誇った豪族で有りました。神武天皇と戦った長脛彦とか、その後の役小角(えんのおずぬ)とか、はたまた、葛城王朝が存在した説まで有ります。

記紀の世界で、華々しく登場するのは5世紀の河内王朝、倭の五王の時代です。神功皇后から応神天皇、仁徳天皇、履中天皇、反正天皇、イン恭天皇と続く河内王朝の時代です。

特に襲津彦は朝鮮半島迄将軍として戦争に出掛け、娘の磐之媛を仁徳天皇の皇后にして勢力拡大を図りました。
磐之媛は履中、反正、イン恭天皇を産み大きな権力を握っていた。

(ワカタケル大王に滅ぼされる)

しかし、雄略天皇の時代になり、王権の独裁を狙うワカタケル大王(雄略)により攻め滅ぼされる訳です。例の稲荷山鉄剣の金象眼に刻まれたワカタケル大王です。

この時には強大な有力豪族である吉備氏も滅ぼされる訳です。豪族に担がれた大王から王権を独占する独裁体制をワカタケル大王は狙いました。

安康天皇を殺害した目弱王(まよわおう)は葛城氏の本拠である、円大臣(つぶらのおおおみ)の館に逃げ込みます。そこで、ワカタケルに包囲され葛城氏も目弱王も滅びました。

今回の遺跡発掘では焼けた土と火災の跡が確認されたそうですから、この事件の現場である可能性が高いです。

(葛城氏の謎)

葛城氏は渡来系の豪族であり、蘇我氏、賀茂氏、秦氏、を束ねる渡来系豪族である可能性が高いと言われています。事実、ワカタケル大王に滅ぼされた後は、賀茂氏、秦氏は山城から葛野(現代の京都)へと勢力を移し、蘇我氏は明日香へと向かいました。

神武天皇から三輪王朝時代には大和において、葛城山麓の葛城氏と三輪山周辺の物部氏が覇権を競ったと思います。

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極北の哲の田舎には負けた

最近、同期の哲坊がcocologを始めた。今まで35年間彼の超田舎の生活の話を聴いてはいたが、詳細に記録を始めたのを、読んで”負けた”と思った。

道産子 哲 blog

昭和21年生まれの人間で彼ほどの超田舎生活を経験した人物は存在するだろうか?(日本での話だけどね)

(便所に二回落下した)

サロベツ原野の山の中の分校が生活空間であったらしい。兄弟が沢山いたので、夜中に便所にゆくにも面倒をみてくれる人もいない。電気が通じていないので、真っ暗な廊下を歩いて便所に行く。当時は勿論、懐中電灯も無い。月明かりか蛍雪しか無い時代である。

便所に落ちて、零下20度の世界だから、うんちの氷の角で頭を打つ。ホンマ嘘みたいな、本当の現実で子供の頃は育ったのだ。

(ヤマメ釣り)

北海道はヤマメが川には豊富に存在するようだ。しかし、ヒグマと遭遇する危険がある。ヒグマの足跡をよく調査して川を歩かないと危険なようだ。ヤマメを釣り焼いて保存食にするそうだ。

joの田舎の北河内では鮒でしたね。しかし、子供の腕ではなかなか釣れなかった。しかし、サロベツ原野の山奥では子供でもヤマメが釣れたそうだ。田舎のカラスはのんびりして、都会のカラスは生きるのが大変で頭脳が発達してるという話を聞いたことがある。魚でも同じなのだろうか。

(自転車と馬車)

哲ちゃんの話ではやたらと、馬車とか馬橇の話が出てくる。文明が行き届いていないので、遊牧民の生活をしていたようだ。だいたい、私の育ったのは牧野であり、古代は馬飼いのオビトが支配しており継体天皇の騎馬隊の場所で育ったのだが、流石に私の時代には自動車と自転車が活用されていた。

しかも、馬車で車輪の潤滑油の匂いで酔うという体たらくな子供であったようだ。今の彼からは想像も出来ない古代の子供であったようだ。

(黄色いワサビ)

どうやら、北海道にはワサビが無かったようだ。あの、美味な穂高の山の伏流水が湧き出る松本平野のワサビが無い。黄色のワサビ大根しかない。東ヨーロッパ原産のホースラデイッシュである。私は米国時代に手に入らない物として塩鮭とワサビを思いだした。

彼は、ワサビというと黄色い色をしたものしか、知らないでいた。

兎に角、彼は、極北の時代の子供の頃の話をblog始めたので、面白くてついつい、コメントする事にした。

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気功の藤田さん

昭和44年春、大学を卒業して富士通に入社し、田園都市線市ヶ尾駅の近くの丘の上の第三市ヶ尾寮に入った。

未だ、外壁は塗っている状況で入所となり、6畳一間に二人の相部屋でした。その時のルームメイトが藤田正和さんでした。とにかく、この寮は関西方面の大学を出た連中が収監され、関西弁の寮と呼ばれた。藤田さんも大阪大学出身でやはり関西人である。

(当時の寮仲間)

確か端の部屋に神戸商大出身の浦川、隣が神戸大学経営学部出身の三人がいた、経理の杉本、勤労の和田浜、教育の井上、そして、経済学部の同じ則武ゼミの浅野である。大阪大学出身は藤田と岡本(クエ料理で御馴染み)、光宗。同志社の大高さん、蔵田、京大の柳・・・・・。

部屋で相撲をとり壁に穴をあけたり、風呂では壁が落ちて来たり、本当にボロな、簡易アパートであった。しかし、楽しかった。大学気分が抜けずに、全員が関西弁なので、安心して職場から寮に帰れた。

当時の初任給は2万7千円だったと思う、そして寮の食事代を払い、手取りは2万円を切る時代でありました。週末は金もないので、皆でマージャンとかブラブラする生活を送った。

(藤田さんの趣味)

藤田さんは”気功”では玄人である。

気功と健康HP

彼は、海外事業部のSEとして長く海外を飛び歩き、何時の間にか”気功”にのめりこんだようです。中国本場の先生に師事し免許皆伝である。先日も同窓会があり、久しぶりに会話が出来た。

この寮で育った同期の桜は今年から来年にかけて、役職離任とか定年で会社を去って行く。この寮が社会人としての原点である。

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宇治 木幡 古代記録

宇治の木幡には私の姉夫婦と家内の実家があり且つ、Muさんもお住まいなので、関心が深い。森浩一先生の”記紀の考古学”を読んでいると、木幡に関する古代の記述があり、記録しておきたい。

(矢河枝比売・ヤカワエヒメの拠点)

この木幡は古代、南山背の重要拠点であった。応神天皇の奥様になり、悲劇の宇治天皇と矢田皇女を産まれた宅媛(ヤカヒメ)が住まわれていた。記では宮主宅媛(ミヤヌシヤカヒメ)であり、紀では矢河枝比売(ヤカワエヒメ)と記述されているそうだ。

この場所は和邇氏の祖である、日触使主(ヒフレノオミ)が開拓した豪族であり地盤であった。和邇氏は古代重要な豪族であり、もともと奈良北部の天理から京阪名丘陵から北河内の木津川の南岸迄大きな勢力を持つ豪族であった。

(葛野を詠む歌)

応神天皇がこの木幡にて北西の秦氏の拠点である葛野(カズノ)を見て詠める歌

”千葉の葛野(カズノ)を見れば 百千足(モモチダル) ヤニワも見ゆ 国の秀(ホ)も見ゆ”

京都盆地の北西にあたる葛野を遠く望むと、沢山のヤニワが見える、国の秀(富)が見えている

ヤニワとは家と庭だそうで、庭は神事を行う場所であったり庭園でもあった。多くの屋敷と庭が存在する栄えた都市を誉めている。それ程、秦氏の拠点は栄えていた。羨望の歌である。

(大国郷)

木幡は強田(こわた)とも記述され、古代の巨椋(おぐら)湖へそそぐ宇治川の河口にあたり、北東への陸路をとると逢坂山を越え近江に至る古北陸道の要であった。6世紀頃には強大な勢力が存在しその中心が和邇氏であった。

古代の木幡は近世の木幡村よりも大きく律令制時代では大国郷と呼ばれていたそうだ。宇治郡の中心ですね。

しかし、悲劇は応神天皇がこの宅媛の子供の宇治天皇(ウジワキイラッコ)を可愛がり、仲姫との間に生まれたオホサザキ(仁徳天皇)に滅ぼされる訳ですね。


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We 2号店オープンハウス

2005_02200035恵比寿の創作ベトナム料理のレストランとしてお世話になった、”We"が遂に2号店を同じ恵比寿でオープンハウスをした。本日招待されてお伺いしたが、20代の若者でお店は溢れていた。
私は年寄りコーナーでオーナーの建英君の御両親の古河建純さん(nifty社長)の席に避難した。

Weホームページ

オープンハウス模様写真

過去記事 ベチナム料理 恵比寿(We)

今度の本店は1階と地下の2フロアーあり、以前のお店よりはかなり広そうである。今までのお店は”With包”として存続する。

We 本店: Sun Ebisu 1F/B1F,1-15-8,Ebisunishi,Shibuyaku,Tokyo 03-3463-7875
営業時間は11時30分から深夜まで営業しています。お昼も是非お立ち寄りください。

20代の若者が経営してる、頑張って欲しいですね。

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友 西安より帰国する

昨夜は昔、オーストライアのビジネスを一緒にやっていた旧友が、8年の駐在を終えて中国、は西安より帰国した。

(自由が丘は金田)

私は風邪気味で午後は会社を休み、自宅で安静にして風邪の回復を図り、夜は、重装備で真っ赤なキルテングにスキー用の帽子を被り、旧友の歓迎に自由が丘に向かった。

Mさんとの再会は15年振りくらいではないか。私が米国駐在を終えて帰国して、暫くしてオーストライラのビジネスに関与した。1986年頃ではないかと思う。Mさんと2回、オーストラリアに一緒に出張した記憶がある。

彼は私の1つ年下である。今年、役職離任した。同じグループでは100人の役職離任の人々が存在するそうだ。団塊の世代が退職金を頂く時代の最盛期を迎えたのだ。日本の高度成長を支えた戦士達の引退の始まりである。

昨夜は4人集まった。道産子の哲ちゃんは既に役職離任している、もう一人は3月末に韓国はソウルに子会社の常務で赴任するM橋君である。

(豪州の想いで)

シドニーとキャンベラが活動の舞台でした。米国で言えばニューヨークとワシントンDCというところでしょうか。私は、カリフォルニア帰りでしたので、英語が西海岸なまりですので、豪州の連中には直ぐに指摘された。

時差が1時間程度しかないので、長時間の飛行機の旅であるが疲れない出張になりますね。2千円程度でゴルフは出来るし、物価は安いし、住みやすい国の印象があります。

最近までは3千万円だせば引退後に死ぬまで豪州でゆっくり暮らせるペンションプランが有りましたが、今は医療費の負担が大きく政府も取りやめたそうです。しかし、日本人にとり未だ、引退後の永住の地としては魅力のある場所であります。

日本が寒い冬を迎えると、豪州に移り、暖かい日々をゴルフとマリーンスポーツで過ごす生活は魅力であると思います。物価は安いですから、過ごしやすいと思います。

但し、ハエが嫌いな御婦人には向きません、ゴルフ場で白い服を着てると背中にハエの群れが飛んできてとまります。これだけは、しようがないですね。

(西安の感想)

彼は西安の子会社の社長を長く続けていました。今回は私の後輩が代わりに赴任し、若返り、帰国となりました。流石に、”八甲田”ではテレサテンの歌を中国語で歌っていました。異国の言語を話せるのは素晴らしいですね。

西安にはJALが週に二便が直行で飛んでいるそうです。私がプライベートで訪問した時は北京経由でしたが、便利になりましたね。彼の勧めでは、敦煌に行く事だそうです。オアシスとして又、遺跡が素晴らしいそうです。

長安は唐帝国の首都として国際文化の華が開いた場所であります。私は大好きな場所の1つであり、又、訪問したいと考えています。今度は東の洛陽にも訪れてみたいと思います。

(ソウル訪問の約束)

昨夜の結論はみんなで、M橋君がソウルに赴任して落ち着いた頃に皆でソウルを訪問する事でした。私はワールドカップで一度しか、経験が有りませんので、今度は韓流ブームもありますから、訪問が楽しみです。彼に案内して貰う約束をとりました。

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平成の国際戦国時代

現在世間では企業買収を巡り騒然としている。私も注意深くこの動きを観測している一人であります。今回の事件の報道に於いて、感情的な報道が多く物事の本質に触れる報道が少なく、残念に思っています。では、私が認識している企業買収について述べて見たい。

(企業買収とは何か?)

企業の活動基盤は現在、グローバルな世界に有ります。米国、奥州ではない、欧州、日本、と国際会計基準を採択して、資本の自由な移動を許し公平な自由貿易を是認しともに豊かな世界を作りましょうという世界の枠組にある。

私は文化面においては鎖国主義者でありますが、経済の面に於いてはグローバルを是認する立場であります。というか、元々日本国は神代より海人族として東シナ海を船で往来し大陸の先進文化と文明を取り入れた、優秀な民族であると考えています。

企業買収とは企業が生き残りを賭けて行動する原理であり、悪いことではないし、当たり前の事であります。私も米国在住時代には買収の経験も有りますし、最近も自ら経験して今、社長でいる訳であります。しかし、米国時代の経験で言うと買収は難しいというのが、実感でありまして、複雑な要素が沢山存在し買収後の領国経営は簡単では有りません。

その最大の難題は企業は人で構成されているからです。欧州、米国、日本はともに異なる文化と歴史に根ざした文化をもち、その文化を尊重し領国経営をしなければ、経営は失敗します。現在、日本の優秀なグローバル企業は海外に於いて成功を収めています。これらの企業の最大の経営課題は文化・文明の異なる国に於いて如何に彼らの文化・文明を尊重し受け入れられる企業経営を行うか?に有ります。

(家族経営の限界)

欧米の優秀な企業は事業の売却と買収を如何にうまくやるか?企業の成長を維持するためには現在一番利益を上げている事業を売却し、高く売り払い将来の高度成長を期待出きる事業を買収するかに経営者の手腕がかかっています。

日本という国の風土としては、この企業買収とか事業の売却、買い付けという行為をあまりしませんでしたね。大企業では将来の成長を見込める事業に対して自らが研究開発部隊を内部で起こし、自分の生命体の中で、変革をする事が美徳であると考えて来ました。

しかし、米国に於いてはシリコンバレーという将来に大きな利益が期待できるかも知れない事業に果敢に挑戦する起業家が存在し、国家そのものが1つの企業として存在し、そのような新しい事業を生み出す仕組みを持っていました。従い、大企業では自社内での研究開発だけに頼らず、これらの起業家の成功しそうな事業を買収し、彼らには巨額の報酬を与え大企業は存続して行く”しかけ”が有りました。

日本の資本主義の転換点はここに有ります。従来の家族主義の日本の経営は素晴らしいけれど、国際会計基準の適用により、米国の経済原理の枠の中に組み込まれた訳です。従来の株の持ち合い、銀行の金融資本に依存した産業資本は自ら資金を調達し、利益を上げて生き残る事が強要されているんです。

昔は、利益なんか出さずに企業の永続性のために研究開発費を投下し、含み資産を最大にする経営が許された訳ですが、今は四半期単位での利益が経営者に要求されています。企業内だけで、再生するプログラムを開発するのは限界に達しています。

(資金調達の問題)

企業買収には基本的に市場価格の3倍から4倍の価格をTOBしなければ買えません。株価総額の3倍は提示してその会社の株主から株を購入するんです。これを、TOBと呼びます。どうしても、その会社の事業を買収して自分の会社の事業と結合することでもっと価値を高めることが出きると判断すれば、3倍の価格を提示して購入してもいい訳ですね。

問題は資金調達ですね。素晴らしい経営者は現在儲かっている事業を売却して資金を保持してその金で将来儲かる事業、もしくはシナジー効果で利益がでそうな事業を買収します。GE,IBMともにこの10年間は名経営者がこれを成功させた訳です。

今回の、問題の若手経営者はMSCBを発行して資金調達をしたそうですね。彼の会社は連結売上300億、利益40億で資産1千億円の会社で800億円のMSCBを発行して資金を調達したのです。下限が157円だそうですが、そうすると11億株が市場に出ることになる。

既存株主に取り、株数が倍増すれば一株あたりの資産が倍増しなければ、釣りあいがとれませんね。果たしてそれが実現されるのでしょうか。それと、今回は本人の株券を幹事証券会社に貸与したと報道されています。証券会社はこの貸与された株券をカラ売りすることで、株価を下げMSCBを転換する行動に出ますので、株価はどんどん低下し証券会社は巨額の利益を得ることになります。

(企業防衛)

今回の騒動は買収された側にも油断が有りましたね。何時でも買収の危機にあると考えていなければ、企業経営は出来ない。これからは、このような話は資本の移動が自由な米国の経済圏に組み込まれた日本がさらされる、経済戦争に位置している事を経営者は認識する事になりました。

貴方の会社も突然に、米国の会社に買収されているかも知れない。常に、防衛戦略を持っていなければ、いけません。防衛の戦略については、別途、記事にします。

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桂木淀文化圏(デモイン文化圏)

桂川、木津川、淀川という大動脈が集まった場所に古代、大和と対峙する大きな文化圏が存在した。これを、桂木淀文化圏(仮称)と呼ぶことにする。実はこの文化圏の連中が日本の歴史を裏で動かした隠された王朝である。

古来、世界の古い帝都は大きな川の傍に栄えた。セーヌのパリ、黄河の洛陽、長江の南京、鴨緑江の集安、大同江の平壌、白馬江の公州、ナイルのテーベ・・・・あ~~~、きりがない。

そこで、日本海と瀬戸内海、大和の三叉路にあたるサプライチェーンの拠点である、三つの動脈の集結する場所に文明が存在しなかった訳が無い。

昔、米国駐在時代にシカゴから少し、西に入った場所に仕事で通った。三つの川が合流する場所に大きな町があった。町の名前は”デモイン”と呼ぶ。アメリカ先住民のインデイアンの言葉であり、三つの川が出合う所という意味だそうだ。だから、桂木淀文化圏でもいいし、デモイン文化圏と呼んでもいい。

(邪馬台国を支えた国)

卑弥呼(日の巫女)を支えて、動乱の中国と朝鮮半島の国際外交を担ったのは、桂木淀文化圏の連中であった。
その首長の墓が椿井大塚山古墳に33枚の魏の皇帝より日の巫女が頂いた三角縁神獣鏡を抱いて眠る。

(崇神天皇と天下分け目の戦争)

日の巫女、神武天皇さまの治めた大和に新しく侵入したミマキイリヒコ(崇神天皇)と天下分け目の戦争を行う。彼は桂木淀文化圏の武埴安彦(タケハニヤスヒコ)である。そして、妻の隼人荘の吾田媛である。

(河内王朝を作る)

神功皇后は息長タラシヒメといい、この文化圏の出身である。そして、息子の応神天皇に河内王朝を開かせた。その後も仁徳天皇の后もここからでる。又、一時、宇治天皇が王朝を開いたかもしれない。

(継体天皇即位)

越の勢力と息長氏の勢力は継体天皇を樟葉宮に即位させる。筒城宮、を都とする。かれは、大和に入る必要はなかった。ここが、従来の歴史観と違う。彼は新しく、新王朝を開いた、それは、南朝の滅び行く宋を相手にせず、北朝と朝鮮半島を重視した国際戦略を打ち出した。

(天智朝廷を近江に誘導)

白村江(はくすきえ)の戦争に敗れた、天智王朝を近江に誘導する。避難させる。唐王朝が瀬戸内海と日本海から攻めて来たときを想定して、海外情勢と海軍力を持つ桂木淀文化圏の誘導による。

(天武王朝時代の不遇)

天武天皇から奈良時代終焉までは臥薪嘗胆の時代が続く。その間に、京都の治水と開拓を行い力を蓄える。

(桓武天皇を京都に迎える)

遂に、時代が到来し、桓武天皇を開拓した京都に王朝を迎える事になる。臥薪嘗胆が実る。

これは、大雑把な仮説であり論証が必要です。

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木津川流域 隠された王朝

やはり素人の古代趣味の人は、自分の生まれ育った場所が世界一だと考えるようです。私もそうかも知れない。
一昔前ならば、邪馬台国は招堤村にあったとなるでしょうね。

(客観的な故郷整理)

先ず、交通網である、古代は船による物資輸送が大動脈であり、淀川と木津川と桂川と宇治川、小椋池の交差路である。
石清水八幡宮が合流地点の山の上に存在する。宇佐八幡と比肩する八幡信仰の拠点である。八幡信仰は息長タラシヒメ(神功皇后)から息子の応神天皇、河内王朝を開祖した人物である。

麓には樟葉村があり、継体天皇即位の場所である。応神天皇から仁徳天皇、雄略天皇、等の倭の五王の河内王朝から変革した王朝を築いた。越の国と琵琶湖西岸の息長氏の勢力が中心の天皇である。ヲホド王と呼ばれる。

男山丘陵を東に木津川に沿い進んで見ましょう、大隈隼人が移り住んだ隼人荘があり、彼らが崇めた甘南備山が存在する。そして、崇神天皇の息子のイクメイリヒコ(垂仁天皇)の奥様になったカグヤヒメの村がある。そして、継体天皇の宮が存在した筒城宮がある。

そして、息長山普賢寺という古代大伽藍を誇った息長氏の寺がある。ここから、長尾の方面に向かうと和邇博士の拠点になる。千字文を伝えた大豪族、和邇氏の拠点がここから奈良の北部、盾列古墳群から天理和邇村へと続く。

先日、天理の和邇では田圃の下から400基以上の古墳が発掘された。和邇氏の巨大勢力を垣間見ることが出来ますね。しかし、この和邇氏は崇神天皇側について南山背のタケハニヤスヒコと大戦争を行った。

大和古代ニュース

元に、戻り、今度は石清水八幡宮から木津川に沿い男山丘陵の川沿いを東に向かいましょう。宇治川に別れ、宇治川を遡ると宇治の平等院へと続く。しかし、話は古代であり、MuBlogで詳細な記事のある宇治天皇が拠点である。
応神天皇の末息子で仁徳天皇と皇位を争った悲劇の兔道稚郎子の墓がある。或る説では宇治天皇として応神天皇崩御後、即位したという説がある。

再度、宇治川と木津川の合流地点に戻り木津川を遡上してみましょう。この川では崇神天皇と天下分け目の大戦争が行われたタケハニヤスヒコが戦った場所である。タケハニヤスヒコは南山背を拠点にヤマトから和邇坂を越えて攻めてくる軍勢と戦った。そして、敗戦した。古代では大戦争であったらしい。

特筆すべきは、タケハニヤスヒコの奥様は隼人系の女性であり吾田媛、河内からヤマトを攻めた。女性が戦闘集団を率いるのはどうやら、隼人系の特徴であるそうだ。しかし、イサセリ彦の軍勢に敗戦する。

さて、もう少し木津川を遡上すると、椿井大塚山古墳が鎮座する。この古墳は三角縁神獣鏡33面を出土し卑弥呼が魏の皇帝より下賜されたものではないか?と言われている。権力の中枢が此処に存在した可能性がある。

(今後課題)

今後の課題としては、三輪山周辺のなら盆地、葛城周辺の王権と京阪名丘陵をはさんだ、山の背の、海道の国、海人族の強大な国際貿易国家が存在したのではないか?もしくは、大和王権を左右する国が存在したのでは無いかと考えるようになった。

今後、古代史を南山背を中心に見直す事を始めてみたい。

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模型飛行機 30年

ラジコン飛行機を始めて、早30年近くなる。何故こんなに長く、続けることが出来たのか考える時がある。昨日の千葉飛行会も最初から、墜落飛行機の山での捜索から始まり、孟宗竹の急斜面の登り降りで今日は足腰がガタガタである。

(飛行機は難しい)

ラジコン飛行機は難しい。30年も続けている親爺がいうのですから、間違いは有りません。昨日も半日かけて、OS FS70 アルチメイト・エンジンの調整を二人で行ったが、不調であった。勿論このエンジンは上級者用であり、素人では始動も出来ない代物である。

昨日の問題は実は、しょうもないミスにあるのかも知れないと、夜の床で考えた。自宅に帰り、急に風邪がぶり返し悪寒がするので、床に入り、飛行機不調の反省をした。燃料タンクからの給油パイプも正常である、エンジンのクランクケースからの圧力を燃料タンクに蓄え、燃料を圧送する配管も間違いは無い。

吸気用のパイプも間違いが無い、ポンプからキャブレターへの配管も間違いは無い。燃料も、15%ニトロと30%ニトロの二つを試した。

(T字ニップルの先が問題か?)

残る問題は燃料供給パイプと燃料タンク加圧パイプには、おのおのT字ニップルを挿入して、燃料補給とタンク圧抜き用のパイプを装填している。このキャップに私はモクネジを使用していた。途中で、1つの配管には大岩さんのキャップを借りて、使用したが、もう一つの圧抜き用のパイプのキャップはモクネジを使用したままで、あった。

要は、モクネジでチューブに差し込んでも、隙間があるんやね。ネジやから穴があるんやね。シリコンチューブにモクネジをまわして、差し込んでも、隙間はある。阿呆やね。

(低速回転の安定性)

エンジンの調整で難しいのは、低速での安定した回転を得ることである。キャブレターでの空気吸気の弁を絞り、回転速度を落とすが、停止させてはならず、且つ、安定して回転を得なければ着陸も演技も出来ない。この、低速安定回転を得るのが、模型のエンジンでは難しい。空中でエンストすると墜落が待っている。

(フラップ操作ミス)

昨日、千葉の親爺が大型スタント機の着陸で進入速度が僅かに速く、着陸時に滑走路をオーバーランして片脚を痛めた。着陸進入時にフラップをエアーブレーキとして、両翼のエルロンを上に上げてエアーブレーキにして速度を減速する操作を忘れた。

離陸時はフラップとして、両翼のエルロンを下に下げて揚力を得て、低速でも離陸可能にする。最近の送信機はボタン1つでこれらの操作モードを切り替える事が可能である。フラップモード・・・エルロンモード・・・エアーブレーキモード という按配である。

(リンケージの金具)

飛行機の翼の補助翼というか動翼で力がかかるのは、ラダー(垂直尾翼の動翼)である。飛行機がナイフエッジ状態の姿勢になったときに水平尾翼の役割をするのが、垂直尾翼である。この状態では主翼は垂直に立っており揚力はゼロである。実機の戦闘機ではこの状態では飛行は出来ない、しかし、ラジコンでは機重に比較して法外な馬力のエンジンを搭載しているので、ナイフエッジ状態で飛行する事が可能である。

それは、強力なエンジンのプロペラの推力とプロペラ後流を使い、垂直尾翼の動翼をエレベータとして使用して機体の後ろを落とす作用を行う。即ち、エレベータUPの操作を行い機体の向きをそのままでは落下するのを、お尻を落とす事で水平に保つ。

従い、垂直尾翼の動翼には動作角度が40度位に設定する、大きく角度を持ち動く。従い、かなりな力がかかる。普通の動翼は片側に金具をつけ、サーボモータと連結するが、ラダーについては左右二箇所に金具をつけて、ワイヤーでサーボに連結する。トルクは4キログラム程度が必要で、中型では2キロでいいものが大きな力が必要になる。

大型エンジンを搭載した、F3A国際競技用の飛行機では、リンケージの金具にはボールベアリングが搭載されている。機体だけで50万円くらいはしますので、エンジンとかデジタル・サーボ、受信機をいれると軽く100万円は超える機体です。

月に一度の千葉での飛行会ですが、次回は万全の準備で臨みたい。

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2005/2/12 千葉飛行会

今回は横浜のかっちんが悪性の風邪でダウン。わこちゃんと二人で、出かける。朝6時30分出発する。
私は今回は3機を持参した。

2005/2/12 千葉飛行会

(千葉の親爺は既にフライト中)

飛行場には8時に到着したが、既に、ラジコン親爺が飛ばしている。豪快な中型の60クラスのアクロ機である、見事な演技をみせていた。到着し、車から出て、親爺の傍に行くと、突然に山の林の中に墜落。

兎に角、到着したところであるが、3人で捜索に山を登る。私は、デジカメを車に忘れたので、取りに戻る。二人が先に竹やぶに突入した模様である。

私も、遅れじと山に取り付くが急勾配の山で、孟宗竹が密集している。なんとか、竹に掴まりながら、急勾配を登るが頭の上に民家が出現する。勝手に他人の庭に入るのはまずいと判断して、山を降りた。

結論は、高さ20メートルの木に飛行機は不時着しているそうで、手も足も出ないそうだ。お~~悪夢である。又、孟宗竹を切り倒し、飛行機目掛けて投げて、壊して、落とすしか方法は無いか?

大岩さんも到着したので、ともかく、親爺4人でどうするか、考える。とにかく、午前中のフライトは実施して、昼飯を食べて飛行機の回収に行こうと決断する。

(Jo飛行機の主翼忘れる)

イカン、主翼を自宅に忘れた。カルマート25を飛ばすが着陸の衝撃でエンジンが機首から脱落する事故を起こす。又、スホーイのエンジンが千葉のラジコン親爺と二人で始動するが、どうしてもエンジンがかからなかった。これで、飛ばす飛行機はゼロである。

わこちゃんも、タンクが異常で2機とも飛ばす事が出来なかった。大岩さんは、快調にサンデーアルファー50を飛ばすが最後に、着陸で小破する。千葉のラジコン親爺が最後にYS110搭載のF3Aスタント大型機を持ち出し、豪快に最後を決めた。

(昼飯のあとの捜索)

近くの”にんたまラーメン”で餃子と味噌ラーメンを食し、全員で捜索に出かける。なんと、墓場の道に飛行機が無傷で落ちているではないか。素晴らしい、多分、強風で飛行機が自ら落ちたんでしょうね。無事で良かった。

今回の飛行会は散々であった。来月の飛行会には名誉挽回しなくては。

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夢の美術館

今日はNHKで朝から午後の3時頃まで、ルーブル美術館を取り上げていた。”夢の美術館 ルーブル名宝100選”である。全ては見なかったが、概ねは観てしまった。

(100番目はガラスのピラミッド)

最後に選ばれたものは、200億円をかけてルーブルに建設されたガラスのピラミッドであった。どうやら、これも名宝らしい。私は、温室みたなもんを何でルーブルに建設したんやろう?と、思っていました。

(ニケの像)

ルーブル美術館でもひときわ、場所をとり、高台の船の上に風を受けて羽根を広げたニケの像が感動的である。
北エーゲ海諸島のサモトラキ島で発掘された、ギリシャ神話の勝利の女神である。頭の部分は失われているが、風を受けた衣が女神の肌にまとわりつき、美しい。

発掘現場をNHKは取材をしていたが、島の高台の池の中に船を浮かべその上にエーゲ海を見下ろしながら佇む。
正面からエーゲ海の強い風を受けて勝利を導く。まるで、映画タイタニックの場面を見ているようである。(逆ですね、多分に映画が真似たんですね)

スポーツ用具メーカーのNIKEはニケからとったそうですね、知りませんでした。勝利の女神ですからね。

(室伏選手の解説)

ギリシャ彫刻について、室伏選手が解説で登場していた。彼の説明を聞いていると、流石にプロは違うと感心した。
身体をくねらせた、円盤投げで、今こそ投てきに入る瞬間を捉えた大理石の像である。

彼は、左足の親指を指差し、ここに一番重力がかかり、像は親指がもりあがっている。身体の筋肉でも円盤投げをする選手の筋肉の着き方は、特徴があるらしい。裸の彫刻を眺めながら、彼が指摘する瞬間の筋肉の動きの説明は驚いた。アスリートの裸の姿は美しい。古代ギリシャの人々もそれを美しいものと、讃えた。

(ベズレー)

ブルゴーニュにあるベズレー(Vezelay)のサントマドレーヌ教会が紹介されていた。私も2年前に訪れた事があります。例の”ダビンチ・コード”で有名になりましたね、イエスの奥様と言われているマグダナのマリアのお墓が教会の地下にあるところです。

ここから、巡礼の旅は始まります、スペインのサンチアゴ・デ・コンポステーラの巡礼の始発駅です。小高い山の上にあります。私が訪れたときは雨が降っていました。

中世の時代はペストが流行し多くの人々が死と直面していたそうですね。巡礼はそんな不安な時代に人々の心を捉えたようです。

ルーブルは何回でも訪問したい場所ですね、フィレンチェとルーブルは又、訪問したいです。


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兎狩りの思い出

丁度、今の寒い季節には年中行事である、兔狩りが行われた。北河内郡大字招堤村の殿山第二小学校では全校生徒による寒中訓練である”兔狩り行事”が挙行された。

私の家内は京都教育大学付属桃山小学校を卒業したが、彼女も”ポンポン山”で全校生徒による寒中訓練である”兔狩り”を経験したという。どうややら、北河内から南山背にかけての地域では、この行事が行われていたようだ。

時代は昭和20年代である、決して明治でも大正時代でもない。戦後である。

(当時の教室)

勿論木造であり、校門を入ると、そこには二ノ宮金次郎が薪を背負い本を読みながら歩いている。結構危険ではないやろか?野つぼに落ちないか?心配なる銅像が建っていた。これは、多分に当時、何処の小学校でもこの銅像は見かけたような気がする。

木造教室は廊下で繋がれ冬といえども、暖房設備は無かった。しかし、4年生の頃には教室の真ん中に火鉢が置かれ、木炭に火がつけられていた。ガラス窓は30センチ四方の小さなガラスが木枠に組み込まれ、品質が悪いのかガラスは波打っていた。隙間風が吹く寒い教室でありました。

私はよく、廊下を靴を履いたまま走り、先生に掴まり、職員室に連れて行かれ油を絞られた。もしくは、廊下に立たされた。

(兔狩り行事)

これが、楽しかった。この行事については既に記事を書きましたので、再度の掲載となります。

兔狩りの風土 記事

北河内から南山背の地域は不思議な場所である。古代より栄えた場所であるが、不思議な風習が残っている。
兔狩りの行事はこれも、珍しいと思う。遊牧民でもないのに、身体を鍛えるのに小学生から野山にでて野生動物を捕まえる。猟師さんも必ず付き添い、雉を撃つ。

兔狩りの場所は新池という、大きな溜池の近くの山であったが、長尾に近い場所であった。例の和邇博士の場所であり、もう少し行くと筒城宮である。(継体天皇の宮) そして、洞ヶ峠も近い場所でありました。(筒井順慶ゆかりの場所)

筒城の宮 MuBlog

多分私の記憶は一部間違いがあり、5年生と6年生での行事であったかも知れない。家内に聞くと、鮮明に覚えているそうなので、4年後の時代でも粛々とこの行事は遂行されていたようである。

(二ノ宮金次郎は?)

私の家の傍に小学校が二つあるが、校門を入ると定番の二ノ宮金次郎の銅像を見かけない。どうしたんでしょうか?
最近は人気が無いのでしょうか?最近の小学生の見本となる偉人は存在しないのでしょうか?

昔は、ワシントンが桜の枝を折り、正直に話した話とか、有りましたが、最近はどいな按配なんでしょうか?目標が無くなったんでしょうか?

私の故郷の小学校への提案は、是非、真冬に生徒が山を囲み兔狩りをしているジオラマを校門の近くに据え付けて欲しいです。ホンマ楽しかったんですから。


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サロベツ原野育ち 哲ちゃん

昭和44年同期入社で同じ職場で長く一緒であった、哲ちゃんがBlog(ココログ)を始めた。団塊の世代が続々とBlogを始める傾向である。

道産子 哲ちゃん Blog

蝦夷地のてつ坊 記事

彼の事は一度、blog記事にしました。”蝦夷地の てつ坊”として狸村シリーズです。

入社以来かなり長く一緒に仕事をした記憶がある。最初は別のグループであり、彼は当時中型のコンピュータのオンライン制御プログラム(F230-35 ROS COP-F)のメインの開発設計をしていた。私は、大型金融オンライングループでしたね。

その後、職場も一緒になり、計画部第五計画課にて富士通の社運を賭けた、MシリーズのオンラインDB/DC AIMのオンラインの設計を任された。確か親分は古河さん、哲ちゃん、石田君、私の三人で設計を始めた。

当時、オンラインについては神様と呼ばれた”三浦亮一”という宿老がおられた。富士通のオンラインというか、日本の大型のオンラインシステムはことごとく、彼が設計していた。哲ちゃんは中型のROS COP-Fの設計をした実績を持ちAIMでは歴史を統合しようと、意気に燃えていた。

AIM DCの基本設計を通じて彼とは、必死に考えた。何故、三浦先輩はDCの基本構造をこのように考えたのか?設計思想は残っているが、インプリメント設計思想は何処にも書かれたものが無い。しかも、MシリーズはOS構造がオンラインに向いていないOSである。

AIM DCの基本設計を進めるうちに、ついに、OSと言語そのもを大幅に改造もしくは、設計し直す必要があると結論に達した。オンラインリアルタイムとは端末もしくは、何処かのコンピュータからトランザクションが飛び込んでくる、そいつを規定時間内に処理して又、コンピュータから追い出す必要がある。

しかも、一時間に100万件近いトランザクションを規定時間内に処理しなければ、ならない。待ち行列理論に従い、トランザクションが必要とするリソースを全て確保してからでないと、トランザクションを受け付けてはいけない。

計算機の中で如何に効率良く多重度を高める事が出来るか、リソースの取り合いを避けるか、キャッシュの効率を高めるか、マルチCPUの係数を上げるか、割り込み禁止走行を何処まで許すか、COBOLのリエントラントをお願いする、OSスーパーバイザーでの割り込み処理論理での処理順位論争、割り込み禁止のまま外部記憶装置にアクセス出来ないか、それはそれは、面白いプロジェクトになった。

その後、三浦宿老が100人のオンライン開発精鋭部隊を引き連れ応援にこられた。AIM DC 初期段階での基本設計を哲坊と苦労をした思い出は忘れることが出来ない。

その後、彼とは職場も別々になり、私は米国に行き、二度と一緒に職場をともにする事は無かった。

そんな苛酷な日々に彼は、生まれ育った北海道の山奥の話を沢山した。ランプ生活の話からヒグマの話迄、幾多と聴いた。彼のblogでは多分に子供の頃の話が聴けると楽しみである。

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6万件アクセス

JoBlogも11カ月目に入りました。 6万件のアクセスを記録しました。

60163件です。地味なラジコン飛行機と古代史中心のblogですが、素晴らしいコメントをいただく、少数の方々に支えられ、続ける事が出来ています。

今日はサッカーのワールドカップ予選、朝鮮民主主義人民共和国との戦いが行われている。

前半戦を終わり、1対0の小笠原のフリーキックで入れた点を守り、終了した。前半の早い時間での得点は有効であった。今回は国内組だけでの先発であり、俊輔と高原はベンチスタートである。

予選試合ではあの、ブラジルでも何時も苦戦していた。海外でプレーする有能な選手を突然集めても予選を勝ち抜くのは難しいことをジーコは良く知っている。予選を勝ち抜く事とワールドカップの本戦で戦うのとは異なるのである。

国内組は現在最高に調子がいいし、団結が出来ている。ジーコは当面は予選を勝ち抜く事であり、チームの平均的力を発揮するのが予選を勝つ重要な事である。私は、ジーコは日本のサッカーの中興の祖であると考えている。クラマーさんが日本人にサッカーを教え、プロのサッカーをジーコは鹿島で教えた。

今、その教え子達が戦っている。ジーコで負ければ納得がいくものである。それだけ、彼には世話になったし、恩義がある。彼が、ブラジルから日本の千葉の片田舎(失礼)の鹿島に世界のプロのサッカーを伝道した。

ワールドカップ本戦では多分、全く今とは違うメンバーで戦っていると、私は思う、それが、プロの世界である。予選を勝ち抜いた選手には、それだけで栄誉が与えられる。しかし、本戦は異なる。違うメンバーで戦いベスト8もしくは、4を狙う戦略がジーコであると考えている。

稲作・漁労の民族である我々は、予選で戦ったメンバーでワールドカップ本戦を戦わせたいと、考えるが、これは素人の考えであると思う。ブラジル代表は本戦になると試合毎に強くなる、世界の一流プレーヤを持つブラジルはそこが違う。日本も小野、中田、俊輔、高原、稲本、という世界レベルのプロの選手を持つ。

私は、ドイツでは彼らが桧舞台で演じており、日本をベスト8に導くと信じている、それを可能にする監督はジーコである。

日本はロスタイムで点を入れ、辛うじて勝利を得た、2対1である。

俊輔と高原を入れて、流れは激変した。これが、ワールドクラスのメンバの力である。相手に後半の半ばで点を入れられ、同点になるとジーコはすかさず、俊輔と高原を入れた。これは、本当にに危険だと監督は感じたんでしょうね。

でも、いい試合であった。両者ともの頑張った、これがスポーツである。

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義経時代の京都

公家文化の華が開いた平安時代も終わり、武士が興り京都に異質の文化を持ち込み、新たな時代の文化を育む時代が義経の時代でしょうか。新しい武士のエネルギーが京都に注ぎ込まれ、従来の公家文化に刺激を与え、新しい時代が始まった。

(京都の状況)

公家とお寺が支配する京都、ここに武士が侵入した。源氏と平家の武士団である。彼らは権威は無いが、武力は持つ、そして税の徴収に於いて役立つガードマンである。公家の世界も若い天皇をたてて、実権は上皇が握るという世界をつくり相当に乱倫の時代の様相を示していたんでしょうね。そこに、武士が入り込んだ。

お寺は僧兵を持ち武力を持ち公家の言う事を聞かない。そんな時代に清盛は六波羅に実力者として座った。清盛は重商主義者であった。宋銭を多量に輸入して、商業を発達させようとした。銭が流通し始めるのは清盛からである。

清盛と秀吉は似ている。京都に座り、公家としての地位を高め外戚としての地位を持とうとして、且つ、商業を重視した。残念ながら、日本の歴史は彼らに長く政権を持たせなかった。しかし、清盛の福原での貿易港の建設と秀吉の浪速の港。貿易を活発にして商業を活発化させ、国を富ます考えである。

(鎌倉と江戸)

結局は頼朝により鎌倉幕府、家康による江戸幕府という重農主義に日本の歴史は向かった。足利室町幕府は南北朝という特殊な状況にあり、尊氏は京都に幕府を開かざるを得なかった。天皇が二人存在する特殊な事情が無ければ尊氏は東国に幕府を開いたと思う。

で、又、義経のいた清盛の時代である。

今回のNHKの義経では、無頼の若者に騙され鞍馬から常盤の危篤で騙され誘い出される場面で終わった。この無頼の少年達は何でしょうか。

(禿髪)かむろ

司馬さんの義経でも又、丸谷才一・山崎正和さんの”日本史を読む”でも書かれているが、当時清盛は300人の少年警察団を組織していた。彼らは、平家の悪口をいう連中を探索するのである、傍若無人であったそうな。禿髪(かむろ)と呼ばれて、恐れられたそうだ。

重商主義者は情報の価値をよく知る。商いは情報が全てである。清盛はそこらあたり、面白い戦術を取っていた。公家もこの、禿髪の少年探偵団には苦労したそうだ。

(熊野信仰)

清盛の頃から熊野信仰が盛んになる。山の民であり、山伏であり、古くは役小角(えんのおずぬ)に遡る。空海・最澄が密教を持ち込むことで再度、日本の山の神秘が蘇った。義経は叡山の僧兵と鞍馬の行基以来の山の秘術を受け継ぐ。

義経の背後には勿論、奥の国、奥州17万騎の奥州藤原氏がその後スポンサーになるが、私は、山の人々が義経の耳になり目になり、義経を支えたと考えます。

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動乱のヲホド王

生まれ育ちの場所が、継体天皇の即位された場所の地区であり、且つ宮も筒城の宮であり感心が深い。
応神天皇から始まった、河内王朝も終局を迎え、応神天皇の五世の孫という不思議なかたちで、継体天皇は即位した。

武烈天皇が悪者にされていますが、本当にあとを継ぐ子孫は居なかったのでしょうか。河内王朝は朝鮮半島の香りが強烈にする王朝であり、応神天皇自身が神功皇后が朝鮮半島で産んだ天皇と言われている。倭の五王と呼ばれる天皇さまは、全て河内王朝の王である。

私は神武天皇さま以来の王朝が河内王朝に変わった説をとります。正確には崇神王朝からの変革ですね。継体天皇が河内王朝の幕引きをしますが、それには、理由があったと思います。

・中国政策の失敗
・朝鮮半島情勢

河内王朝は中国政策において、南朝の宋を相手に安全保障戦略を取り続けた。しかし、時代はやがて南朝の宋は滅び行く運命にありました。やがて、北朝が中国を統一する動きに有りました。

この国際情勢は朝鮮半島に存在する高句麗、百済、新羅の国々にとり重要な安全保障の問題だったと考えますね。

継体天皇は南朝を捨て、北朝と外交を開き、且つ、百済と手を結んだと考えられます。何故なら、ヲホド王が即位した場所は河内馬飼という百済系の豪族がおり、百済系の人々が勢力を持っていた場所です。筒城の宮は南山背であり仁徳天皇の奥様の拠点である。又、百済系の和邇一族の拠点でもあり、百済の香りが強い。

継体天皇の御世になり、やたらに、百済の記事は記紀には登場する。この百済路線はのちの欽明天皇に受け継がれる。私は、東アジアに於ける日本の大きな、対、中国戦略の安全保障問題が王朝交代の理由であると思う。

(磐井の乱)

筑紫の君の磐井の乱は九州と新羅が手を結んだ戦争である。継体天皇の最大の危機でありました。物部アラ鹿火を派遣して1年半に及ぶ国内戦争であった。これは、新羅にとり東アジアでの存亡をかけた戦いであり、百済と手を結んだ継体王朝との戦いでした。

この路線は欽明天皇に受け継がれ、百済系の蘇我氏の勃興となります。勿論、継体天皇の崩御のあと混乱がありました。蘇我氏の推した欽明天皇と物部氏と大伴氏の推した安閑天皇、宣化天皇の両朝並立の説もあります。

さて、最後に大事な話があります。何故にヲホド王は継体天皇と呼ばれたのでしょうか?

私は、従来の神武天皇以来の王朝に戻した天皇であると、理解します。従来の稲作・漁労の長江文明とヤマトの合体したヤマトに王権を取り戻したとみます。

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古いアルバム

2005_02020008古いアルバムです。両親のアルバムですね。親爺とお袋です。そして、母の妹と子供は誰か判りません。

この写真は刻印により、山形で撮影されたようです。時代は昭和初期と考えられますね。写真館で撮影されています。

父は唐津で生まれ育ったわけですが、母は山形の市内の霞町で育ったそうです。父が東北の大学に新天地を求めた?のでご縁が出来たんでしょうね。

アルバムの最初のページの写真は、昭和天皇さまのお写真であり軍隊時代に撮影されたんでしょうね。掲載するは宮内庁の許可がいるでしょうから、やめておきます。お姿は背広姿にイギリス紳士のような帽子を被り、皮の乗馬靴をお履きになり、手には鞭をお持ちです。乗馬途中なんでしょうね。

この当時に天皇のお姿を写真に収めるは難しいと思うんですが、親爺の話では気軽に撮影に応じられたそうです。

(父母の思い出)

父は寡黙で優しく、一度も子供達とか母にも手をあげた事も有りませんし、大声を出した事は有りませんでした。子供の頃からそのように、教育を受けた様子です。父は子供の頃の話を一度もした事が有りません、聴くのは当時、父の実家で育てられた書生の方々から聴きました。

母は厳しい人でした、ちょうど釣り合いがとれているんですね。私は末っ子ですから、何時も母の傍で育ちましたが言葉使いとか礼儀作法にはうるさく指導されました。多分に私が育ったのが北河内の招堤村でよそものですから、周りに気を使われたんでしょうね。

当時は、品格というものが重要視されていたように記憶します、招堤村は豪農が多く歴史もあり、品格で人を判断したのではないでしょうか。筍の季節には早朝に農家の長者の方が家に採りたての筍を届けられ、暮れにはつきたてのお餅を運んで下さいました。

ヤマトの国では歴史的に古代から、よそ者が入植したときにこのような、関係をしきたりとして繰り返して来たのではないでしょうか。

(東北女性の特徴)

母をみていると、妹に対する愛情は並々ならぬものがあり、且つ、話を聴いていると親兄弟に対する愛情は尋常ではない程に感じました。これは、西日本の文化とは相当に異なるように思います。血のつながりが絶対なのですね。

東北の女性は共通して親兄弟に対する愛情が濃いようですね。これが、私の経験から感じる事です。何故なんでしょうね。歴史を勉強しないとわからないような気がします。

今日は、押入れにあった古~~いアルバムについて少し、触れました。父母のアルバムも時折眺めるのもいいですね。思い出が巡ります。

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九賽溝(きゅうさいこう)憧れ

旅行会社のパック旅行を検討している。目的地は中国の古代蜀の国の山の中、標高3300メートルの世界遺産に指定されている、九賽溝と黄龍(こうりゅう)である。

(成都経由九賽黄龍空港へ)

飛行機で長江上流の蜀の国である、成都に向かい一泊する。そして、次に日の朝に北の山岳地帯を目指ししばしの飛行距離である、標高3300メートルの九賽黄龍空港に降りる。

(九賽溝を探索する)

参考web 九賽溝・黄龍8日間の旅

テレビでこの場所の紹介をうけたが、この世の世界とは思えない。鏡池などはどっちの景色が本物か判らん。それぐらい池に映る景色が美しい。五彩池は色とりどりの色をしている。裏磐梯の五色沼の経験もあるが、映像を見る限り格段の差である。

この名前の由来は九種のチベット族が住んでいるという意味だそうだ。キョウ族である。殷王朝時代に凄まじい戦いを行った民族である。殷王朝そのものは、遊牧民であるので土着の民族であったキョウ族は戦った。凄まじい歴史が存在する、これは又、別途記事にしたい。

(黄龍)

地表に露出した石灰岩層に出来た池が、段々状につらなり、美しい風景をつくる。手つかずの風景が残る秘境である。”童話世界”とたたえられ、世界遺産である。

(三星堆遺跡博物館)

狙いは、ここである。ここは成都の近くであるが、4800年前に黄河文明とは異なる長江文明の栄えた都である。
東西2キロの城壁で囲まれた遺跡が残る。紀元前16世紀に最盛期を迎え、殷王朝と同じ時期に大きな文明の花を開いた。数百グラムに及ぶ金器、重さが1トンを超える青銅鋳造物、500点以上の玉器、80数本の象牙、大量の子安貝
が一度に発掘された。

古代蜀の国は研究がこれからである。しかも、日本の弥生時代を探る上で重要な場所である。蜀の国の犬は太陽がでると、吠えるという。それほど、毎日が霧と雨の曇天に覆われた国であるらしい。

古代の長江文明を探るとともに、諸葛孔明を振り返り、同時に世界遺産の山々が存在する。そこは、黄河文明と戦ったキョウ族の人々がいる。悠久の歴史を考え、日本の弥生時代を押し開いた長江文明を考えてみたい。

ついでに、パンダも見ますか?

鳳凰と長江稲作文明

龍の文明・太陽の文明

三星堆・中国古代文明の謎

長江文明の謎

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歓送会多し

このところ、やたらに歓送会が多い。別れが急に多くなってきた。

・N君の西安(長安)への赴任

・M君のソウルへの赴任

・K君の本社への出戻り赴任

・覆面プロレスラーO君の浪速への赴任

・M社長の引退

・U君の役員引退退社

何なんでしょうかね。急に私の身の回りの縁(ゆかり)の人々が去って行く。歓送会が頻繁に行われる、というか、主催している。

(関西に赴任するO君)

彼は日本を代表する経済新聞社の社員である。しかし、大学時代からプロレスのサークルに属し、今でも大学祭を転々として興行をしている。覆面レスラーである。(以前、私のフウテン娘がメキシコに住んでいたので、自宅に備蓄しているメキシコの覆面を贈呈した)

出会いは、何だったか忘れた。ただ、妙な記者であった。常に取材対象の人間を観察してるように見受けた。普通は取材記事の為により正確に取材内容に深く切り込むのが、普通のエリート記者だと思っていたが、彼は違った。

彼の上司の部長とも知り合いになった。この親爺も風変わりな親爺であった。私と酒を飲んでも別にメリットは無いがやたらに、気が合うのである。どうも、この日本を代表する経済新聞のエリート達がどうみても、変なのである。

(もう一人変な記者がいる)

忘れていたが、先日、S副編集長も突然に雑誌が変った。直ぐに、某証券会社の調査部長の女史と二人で歓送会を開催した。この親爺も変っている。あまり記事を書かないが、書くと、鋭く迫る。物事の本質をとことん考え、今の日本の歴史の中での位置を捜そうとする。

やはり、昔から親爺から聴かされていたが、記者とは変な人種が多いと、最近は特に思うようになった。彼らは目の前の現象を伝える人ではなく、その背後にあるものを看破し、それが歴史的にどういう意味があるのか?と迫る。

そういう意味では、彼らは本当のプロであり、経営者のトップと何時も取材を通じて付き合いがある為に磨かれて行く。

(覆面君が浪速へ赴任)

私は彼に日本の台所と言われた大阪で日本の経済の歴史を学んで欲しい。最近は大阪は地盤が沈下している、しかし、秀吉の時代から日本の経済の中心として、東京の政治に対して綿綿たる経済の中心としての歴史がある。

その何かを掴んで来て欲しいと期待している。人柄が大阪人に似てるので、コミュニケーションは大丈夫と考えている。今年から、関西の大学祭では彼がプロレス興行をする事になるでしょうね。

最後に、私の付き合う記者さん達が言う、”joさん あんたは 変わってる”と何時も言われる。

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私の師匠たち(1)

吉田兼好はんでしたっけ、”先達(せんだち)はあらまほしき事なり”とのたまったのは。

確か昔、徒然草で仁和寺の坊さんが、石清水八幡宮にお参りする積りが麓の極楽寺とか高良神社に参り、これが石清水八幡宮と勘違いした話。覚えていますよね?皆さんの先達というか、師匠はんはどないな、人々がおられましたか?

(子供の頃)

私の場合は北河内の招堤村という、超鄙びた土地でしたので、師匠は野生の動物であり、虫であり、鳥であり、魚であり・・・、要は人間では無かった。庭に放し飼いの鶏と卵を狙う蛇の知恵比べ、はたまたイタチとの生存競争。ボケ~としてると、命が危ないし、卵も取られる。

雀の雛もうかつに動くと巣から落下して、死んでしまう。阿呆な魚はもんどりに捕獲される。霞網にひっかかると、雀はピン焼きにされてしまう。マムシもお百姓さんに見つかるような、畦道散歩をしてると、皮を剥がれて焼かれてしまう。用心しなければ、生きて行けない。

百舌(もず)に串刺しにされた、アマガエルのミイラを見てると”あ~こいつは、阿呆な蛙やな~”と哀れみと用心すれば良かったのにな~~と、心底思ったものだ。

子供の心には、生きて行くことの難しさを自然を通じて学ぶ事が出来た。動物として、生きる、事の基本を自然から学ぶ事が出来たような気がする。街灯も無い時代です、夜は漆黒の闇であり、もののけが未だ、跋扈していた時代でした。

(メリーに学ぶ)

だいたい、この記事は私の社会人になってからの、飲み屋のご師匠を紹介する積りで書き始めたが、根が歴史学者なものだから、ついつい、子供の頃の師匠の話から遡らねば気がすまなくなり、脱線しそうである。

ま~皆さん、諦めて下さい、そのうち58年間を生きた師匠達についてゆっくり、語ります。今日は、先ずプロローグにしましょう。

さて、愛犬メリーに教えられた話です。

彼女は私が物心がついた頃から一緒で、私が小学4年生の頃までともに暮らしした守護神でした。天の川に”もんどり”の仕掛けを据付に行く時も、山に兎狩りに必要な黒竹(くろちく)を取りにゆく時も、山イチゴを狩りに行く時も、畑にトマトを取りに行くときも、庭の鶏の卵を回収する時も、・・・何時も何時も一緒でした。

彼女は特別に耳が良かった。(当たり前?犬やから?その頃は子供やから判らん)

家族の一人、一人の足音を知っていた。我が家は人里離れた缶詰工場であり、お茶の工場でした、夕暮れになるとお化け屋敷みたいなものです。

メリーは家族が帰宅する人の足音を遥か彼方から聞き分ける才能が有りました。他人と家族の差別をするんですね。尻尾の振り方が異なる。吠え方が異なるのです。

すかさず、メリーと私は家を飛び出し、前庭を横切り、御神木の栴檀の木を通過し、迎えに道を走る。何時も、兄貴、お姉さん達、親爺には感謝された。よう~~判ったな~~、迎えご苦労と。

そんな、彼女も私が小学4年生になりやっと、お爺ちゃんの先生になり今までの通信簿がオール1か2の劣等生からオール5に大変身した時に天寿を全うした。それ以来、犬は飼わない事にした、彼女との約束である。

今でも彼女は私の守護神である。

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本日のプロジェクトX

新聞のテレビ案内によると、本日のNHKのプロジェクトXは見逃せない番組である。

多分、ラジコンヘリの話であり、自立型の自動操縦機能が実現されていると思う。是非、皆様ビデオに録画して暇な折りに観て下さい。

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