宿老(しゅくろう) 職工の魂
昨夜NHKの教育テレビで佐々木隆三さんが、八幡製鉄所初代、宿老である田中熊吉翁の話をされていました。私は感動しました、日本の現在の企業が忘れかけている、何かを感じざるを得ない大きな衝撃でした。
(宿老とは)
もともと、鎌倉時代より存在する職制であるそうです。今回の話は八幡製鉄所における職工の最高位にあり、且つ、死ぬまで会社に通い重役待遇として扱われる職制である。職工の魂とされる存在です。
(田中熊吉翁)
田中熊吉は小学3年で中退し、当時官営の八幡製鉄所の職工として勤める。明治34年日本では始めての近代式大型溶鉱炉である日産160トンの火入れを行う。昭和47年に98歳で亡くなる迄、生涯、職工として八幡製鉄所の溶鉱炉の現場に立った人である。
その生涯に於いて、溶鉱炉の銑鉄を取り出す作業にて、コンクリートのように焼けて固まった粘土を切り裂き、鉄を取り出す、その作業で左目を失う事故に逢う。ドイツに留学し、ドイツの製鉄所の機密である粘土の成分を探り出す。
溶鉱炉の建設にあたり、日本はドイツに学んだ、技術者と職工を招聘して教えを請う。ドイツ語も判らない田中熊吉は身振り、手振りで学んで行く。そして、ドイツに留学する。彼は、ドイツでマイスターの称号を受ける。
当時の日本は鉄は国家なりと謂われた時代である。そんな大事なものを、学歴もない職工の人間が一身に担った訳です。物作りの本当の姿をここに見る思いです。
私も、若い頃に川崎製鉄所の千葉の製鉄所のシステムを開発した経験があります。製鉄所の敷地に真っ赤に燃えた鉄の塊が汽車に乗せられて走る。高炉から吐き出された、鉄の塊が厚板に加工され、薄板へと加工されてゆく姿はこの世とは思えない、凄まじい場所でありました。
私達がこの製造プロセスをコンピュータでオンライン・リアルタイムで制御するわけですが、プロセスに設置されたアナログのコンピュータがミリセカンドで送り込んでくるデータを解析しプロセス全体を制御するわけです。
ある時に現場の職工さんに呼ばれました、激怒しておられ、”君、誰かしらんけど、こんなコンピュータの小さなボタンが押せるか?”職工さんの手には巨大な手袋をされている。私は恥ずかしい思いになりました、現場が判っていなかったと。
(何かを見失っている)
今の日本では確実に何かを喪失しつつある。高学歴社会の功罪がある。そして、もの作りの魂を昔のように、大事にしなければいけない。物には魂が宿るわけですよね。”宿老”という言葉と制度は社長より大事な制度ではないかと思う。
”宿老・田中熊吉伝” 鉄に挑んだ男の生涯 笹木隆三 文芸春秋 ISBN4-16-366370-3
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Comments
はじめまして.
lemacと申します.
宿老という生き様に,何か引かれるものを感じたので,トラックバックさせていただきました.
Posted by: lemac | 2004.12.11 05:36 PM
Lemacさま
トラックバック有難う御座います。今後とも宜しくお願い致します。
物創りの世界にはこのような、伝統が日本の民族には存在したのでは、ないでしょうか。
田中熊吉さまが、存在するだけで、あの恐竜のような八幡製鉄所の高炉は守られていると、職工は考えたと思います。
法隆寺に於ける、西岡常一棟梁のような、技術だけでなく、何か精神的支柱であったと、思います。
Posted by: jo | 2004.12.11 07:14 PM
だいぶ、考えさせられました。
いま、靜の海状態なので、記す力がないですが、
かつて宿老という存在があっただけでも、よいですね。
Posted by: Mu | 2004.12.11 10:03 PM
Muさん
御身体、大丈夫ですか?年末の師走、御多忙なので心配していました。暫く、ご休憩下さい。
私は宿老ではなく、宿六(やどろく)です。
Posted by: jo | 2004.12.11 11:39 PM