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フロ-トの制作も夏合宿迄の宿題

2004_04300002.JPG  実は、夏合宿で水上機を飛ばそうと、フロ-トの制作もしなければいけない。これが、面倒で飛行機の足の部分にバルサ材で棺桶みたいな箱を二個作る必要あり。水上で梶を切る為に、飛行機のラダ-と連動する為のカラクリが必要なり。しかも、棺桶に水が浸入してはいけない、防水処理完璧が要求される。湖で離陸、着陸失敗するとお分かりですね、大変。飛行機がプレ-ニング、タキシングで真っ白な線を湖の上に引きながら、浮上して木崎湖の湖面から後立山の峯を目指して飛行する様子はどないに感動か!

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海の邪馬台国

『海の邪馬台国 』 三内丸山遺跡が古代史の定説を変えた 邦光史郎 ISBN4-396-31077-3 祥伝社 550円 平成8年
1章 海へ向かう三内丸山遺跡 ・・・・かつて北の地に栄えた高度な技術と文化
(1)稲作以前にも"農耕"はあった
(2)職能集団に支えられた文化と交易
2章 三内丸山と吉野ケ里を繋ぐ"海の道"・・・・日本海を縦横に渡る古代人の智恵と行動力
(1)天然の港ラグーン(潟湖せきこ)の役割とは
(2)日本海から見た"縄文から弥生"へ
3章 海流の三叉路"吉野ケ里文化圏"・・・・ 最も早く弥生文化が始まった地とは
(1)邪馬台国と吉野ケ里遺跡
(2)弥生期最大の王国・吉野ケ里
(3)ふたたび故郷へ旅立つ弥生人
4章 邪馬台国はどこにあったのか?・・・・『魏志』が記す謎に満ちた"一万二千里"の道のり
(1)朝鮮半島と倭国の微妙な位置関係
(2)『魏志』が記す邪馬台国を読む
(3)邪馬台国は北九州にあった

邪馬台国の位置関係については、私と意見が違いますがなんせ私の父が生まれ育ったのが唐津ですので、吉野ケ里にも郷土愛?があります。それより、海洋民族に注目した点が同感できるところが有り、特に三内丸山遺跡については衝撃でした。私も早速当時遺跡を家族連れて訪問しました。港見下ろす高台のところに巨大な掘っ建て柱の建造物の遺跡が残り、日本海海洋民族の掘っ建て柱の技術力には驚きました。栗の植林も驚きでしたね、DNA分析と花粉分析で農業をしていた事が判明し当時は歴史の常識を変えました。今から5千5百年前頃の縄文時代の遺跡ですが1500年も繁栄した国だったんですね。昔から、疑問であったのは何故西日本には縄文遺跡が少ないのか?この謎はこの遺跡を訪問して始めて、理解出来ました。今から6000年前に鹿児島南端 トカラ列島の『鬼界カルデラ』の大爆発があり西日本を壊滅させたと遺跡で聴きました。噴煙と火山灰と気象異常により西日本はその後、数千年間は人間の住めない状況が続き縄文文化を壊滅させたと聴きました。その後、時代は下り朝鮮半島とか長江下流域より人々は稲作を持参して弥生が西日本中心に広まったそうですね。私は、長江下流域に感心があります、中国の統一が始まると特に漢帝国が生まれる頃に多量の民族難民が黄海に船出し新天地を目指したと思います。この人々は海流に乗り、親爺の育った九州地域に上陸したと考えます。勿論、朝鮮半島も何回も遊牧民が南下を始めますので、押し出されたモンゴロイドも九州、日本海に繰り出したでしょうね。まるで、難民受け入れ先のような日本列島は異民族が共存しなければ生きて行けない文化が芽生えたと考えています。ここ迄は私なりに理解出来た訳ですが、今だ悩んでいる事は何故、大陸に近い九州に日本を纏める巨大国家が生まれなかったのか? です。神武天皇さまは何故東征したのか、そして飛鳥の地に本拠を置かれたのか? その理由が今だ解けないでいます。この課題は実は現代日本の首都論争、遷都論にもおおいに関係があると思います。現代は飛行機輸送の時代ですので、サプライチェーンのハブは空港になるので、色々難しいですが。私は三輪山の麓 巻向地方で日本の国の原型が出来たと考えていますがその理由が解らんのですね。

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飛行機着水 回収大変!

連休初日、朝六時起床 愛車”ママチャリ”で何時もの鶴見川 新横浜中州飛行場に到着。赤とんぼメンバ加藤教官は未だ姿が無い。快晴なれど、風強し、わが腕ならば大丈夫。愛機”スカイビンボ-”を飛ばす。快調なり、霊峰富士が彼方に美しい御姿でおられる。川の淵には菜の花が絨毯を敷き詰めた如き美しさなり。着陸時プロペラ破損する。加藤教官の到着、教官のプロペラを譲り受け、装着。さて、ここから今日の悪夢が始まった。先ず教官が空中でエンスト(エンジンが停止する)し川に不時着か?川淵の崖の途中に引っかかる。教官崖の上より紐の先にそこらに落ちていたペットボトルを巻きつけ、飛行機目掛け投げる、絡ませる、引き上げる・・・・無事回収成功。次は私の番でしたね、やはりエンスト川に不時着する。幸い川の淵まで降りれる場所であり、何とか紐を使い回収できた。飛行機は水浸しであり、直ぐに、電池を外し、電気系統の配線を外す。多分2~3日は回復しなでしょうね。乾くのに時間がかかる。最後は教官の飛行機がまたもや川の中に不時着する。私が崖の上から紐の先に自宅の鍵とか金属物を結びつけ、川に浮かぶ飛行機目掛け、投げる、命中するしかし瞬間、飛行機の向きが変わり、無情にも流れて行く・・・・・あ~~~あかん。対岸では暇な早朝散歩の年寄りさん達が騒いでいる。幸い下流でこちらの岸に流れ着き、私は責任感より右足を川の泥沼に入れてでも教官の飛行機を回収した。何で、今日に限り革靴履いていたんやろ!この靴は破棄処分やな。こんな日に限り、デジカメもビデイオも持参していなかった。面白い映像がとれたんやけどね。あ~~疲れた連休初日より厄日や。

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高松塚古墳について

私が30数年前に江戸に出稼ぎに来た頃に高松塚の発掘がありました。世紀の発見(発掘?)と言われ見事な極彩色の壁画がお墓の中で見つかりました。私は、その壁画の写真を大きなパネルにした額入りを購入し後生大事にしていました。その後何回か飛鳥の檜隈を訪問して高松塚と今は整備された博物館?になっています。この発掘は当時は衝撃でした、小さな古墳なのに中味が極彩色の素晴らしい世界が展開していたのです。しかし謎だらけの古墳でした。30年の時代は過ぎまたまた、近くのキトラ古墳が発掘され高松塚同様の壁画古墳でした。正確にはキトラ古墳は未だ、ハイバ-スコ-プで覗いているだけです。私は棺を安置した空間にその人物の為に何が出来るのか?四神に守られ(北の玄武、東の青竜、西の白虎、南の朱鳥)そして男子、女子の群像が描かれ、天井には星宿が描かれていた。天子の一族を表す北極五星とそれを助ける輔佐の大臣の四輔の星が描かれ二十八宿の星座が描かれていた。キトラ古墳の星宿はもっと正確に太陽の道と月の道が正確に描かれており、その星の位置関係より高句麗時代の日時と物理位置まで特定された事は皆様ご存知の事です。(昔コンテンツ時代に北海道は札幌のソフトハウスの社長とTownsでHyper Planetの教育用ソフトを出版させて頂いた。このソフトではあらゆる時代のあらゆる場所での星空をシュミレ-ション可能) 皆様ご存知の通り藤原京の中軸線の延長上に天武持統天皇稜、文武天皇稜、等聖なるラインの延長上に位置しています。当時、梅原猛先生は”黄泉の王”の書籍で私見高松塚を発表されました。私は被葬者が誰かという事よりも、死後の世界をどのように当時の人は考えていたのかに興味が有りました。エジプトのお墓、中国の地下のお墓、共通する思想が古代人にはあるように思います。しかし私が見た秦の始皇帝の陵の近くの兵馬ヨウコウでは今でも軍隊が守っている、日本の高貴な人のお墓の何と平和な美麗のスカ-トを纏った貴婦人がお守りする平和なあの世か!この違いは何でしょうか?梅原猛 ”黄泉の王(よみの おおきみ) 私見・高松塚 新潮文庫 ISBN4-10-124405-7 C0121 480円

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朝鮮人参と仏蘭西人

2004_04270002.JPG 日本の土産は横浜中華街で購入した朝鮮人参です。2個で2万円でした。 阿呆な奴ですね。 次女の香奈枝と!

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ジェ-ン台風の恐怖 子供の頃の想いで

子供の頃の食料事情について触れてみましょう。

(新鮮野菜を食す)

庭の畑には何時も野菜がありましたね、かぼちゃ、曲がった胡瓜、真っ赤なトマト、これを、井戸で冷やして食べるんです、美味であったな。農家の友人のお家に遊びに行くと、時折新聞紙にお砂糖を入れたおやつを貰いました。冬の季節には地下の穴倉倉庫に色んな野菜が貯蔵されていましたね。梯子を暗闇に向かい降りて行くんですが、これが怖い。豪農のお家が多いので立派な地下倉庫でした。

夏は野外で遊んでいると、自分の田圃のスイカとか、マッカ瓜を取り用水路で少し冷やし、杭に打ち付けて食べる。別に盗み食いではありません、農家の親が認めた行為でした。

(ポーン菓子)

一番の楽しみはポ-ン菓子でしたね。これは田舎の子供達にとり最大の楽しみでしたね。おじさんが大砲みたいな物に、金網を巻きつけたような異様な装備をリヤカ-に乗せて田舎の道を巡回するんです。子供達はお米とお砂糖を持ってこのおじさんに預けます。おじさんが大砲をクルクル回して加熱して行きます、おじさんが指示すると、子供達は両手で耳を押さえ大砲の発射を固唾を飲んで見守りますね。

(轟音響く)

”ポーン” と言う轟音と共にポップコ-ンみたいになったお米の菓子が金網の中に充満するんです。これが怖いけど面白いのですね。このおじさんについて、子供達は村々を廻ってゆくんですね。

(高級菓子との出会い)

さて、時には高級菓子に出会う事もありました。家の前には大きな道があり時折トラックが通るんですね、砂利道なので至る所に窪みが出来てトラックが飛び跳ねるように走り去ります。ある時、メリ-と兄貴と三人で道端で遊んでいると、大きな木箱が落ちていました。少し、壊れていましたが中味が味覚糖の高級キャンデイ-で棒状の物で金色にすき通り、一個ずつが包装された見事な高級菓子なのだ。兄貴の自転車に乗せて、三人は戦利品を自宅に持ち帰った記憶がある。

さて今回のメ-ンイベントは台風です。

(ジェーン台風襲来)

私が未だ4歳の頃の話しですが、正確には昭和25年9月3日の出来事なのです。その日は夕方から風と雨が激しくなり不安な状況が子供ながらに、雰囲気を感じました。雷は鳴り始め家の前の栴檀の木に落雷し、雨と風は激しくなり不安が襲ってきました。

父は仕事から帰っていないし、電灯はつかなくなるし、不安です。深夜になり益々風と雨は激しく、工場のスレ-トの屋根が飛び始め、まるで、爆撃を受けている様相になりました。母は私を布団で包み、食堂の大きな机の真ん中に於いて嵐が過ぎ去るのを待ちました。

この時の印象は強烈に覚えているんですね、朝を無事迎えることが出来た時の嬉しさはひとしおでした。関西を直撃したジェ-ン台風は全壊135軒、半壊932件の大きな被害を与えた台風でした。

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兎狩りの風土 子供の頃の想いで

家の前には大きな背丈20メ-タはあろうかと推測される巨大な栴檀(せんだん)の木ガ聳えていた。兄が何時もその木に登り遠くを眺めていました。私と四歳離れており、スポ-ツマンでしたね。何時も、根元で犬のメリ-とふたりで木の上の立派な凛々しい兄貴を眺めていた。(犬も木登りは苦手)

(溜め池で泳ぐ兄貴を眺める)

夏の季節には近くの溜池で友人と泳いでいましたね、私はいつもメリ-と池の岸で兄貴達の泳ぎを眺めていた。銀ヤンマ(蜻蛉)が群れ飛び時折、お尻を池の表面にチョンチョンと接触させて飛びます、卵を産んでいるでしょうね。溜池の樋(田んぼに水を引く為の水門)の上に登り真っ黒に日焼けした兄貴がこちらに手を振る。いつか泳げる勇気がでないものか眩しい兄でした。

池の水面には菱が沢山あるのですが、あまり食べた記憶はありません。鳥が沢山浮かんでいて、突然クルリともんどり返りお尻を上にして潜行するんですね、面白くひょうきんな鳥達でした。

(カーバイドを盗む)

小学生になり友達と雀脅しに使うカ-バイドを御百姓さまのお家から持ち出し、近くの小川に入れるのですね、魚がプカプカ浮いてきます。一度、御兄ちゃんの自転車のヘッドライト用の電気で魚が取れないか、挑戦したが駄目でしたね。一生懸命に自転車を身体を斜めにして漕ぐ(背が小さいからサドルに据わると足が届かない)が一向に魚が浮いて来ない、失敗でした。

(もんどりの仕掛けで魚を取る)

おこずかいが貯まると魚を取る名前は忘れたが、ガラス製とポリエチレン(?)製の機材を買い中にザリガニのお尻の肉とか蛙の剥いだ身を入れて近くの小川に沈めておくのです。回収に向う時は期待感と心配が交錯して畦道を走って小川に向かいましたね。しかし何時も、お呼びでないザリガニ野郎が入っているんですね。

近くの穂谷川の堤防では竹を橇にして箱を載せてグラススキ-が又楽しい遊びでした。何時も、ズボンのお尻が破け、母に怒られた記憶があります。

(全校生徒で兎狩り)

冬の二月の季節になると待ちに待った全校生徒による一大行事”兎狩り”のイベントがくるんです。男の子は手に竹の杖を持たねばいけません。この竹にも決まりがあり、黒竹の竹であり、かつ根が踝のように大きくついていなければ成りません。友人は殆ど農家の息子でしたので、自分の竹薮に入り最高の黒竹を選び根っこから掘ります。

全校生徒で里山を囲み,麓から山頂を目指し、黒竹の棒を叩いて大声で叫び行進するのですね。兎は驚くと後ろ足が大きいから必ず斜面を登りますね、下る阿呆な兎はおらんです。そうすると、仕掛けていた網にかかるんですね。次の日の昼の給食は兎汁でした。この風習について日本の中で色々と調査したが、珍しい風習である事にきずきました。

(唱歌 新解釈)

”兎追いしかの山、小鮒釣りしかのかわ・・・”これ、兎狩りの話なんですよ!知らんかった?今日は為になったね!
牧野一帯は崇神天皇さまから継体天皇さまの樟葉の宮での即位、渡来系馬飼いの氏族が支配する大陸の遊牧民の騎馬民族の血が受け継がれているんです。

注:雀脅し・・・・稲穂を雀から守るために田圃に仕掛けられた装置。竹筒を使い、カ-バイドを使い水と反応させて大きな音を出す。ドッカ-ンとね!ホンマ子供ならひっくり返る位怖い。
注: 魚を取る道具『もんどり』でした、思いだしたです。 参考サイト

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不思議なBlog

不思議なBlogがあるもんですね、私の知り合いの浅茅が原先生のBlogなんですがこれが、或る記事で23件ものコメントがされています。記事:平城宮跡 そして佐紀盾列古墳群 
極めてマイナ-で専門的な記事ですが、何でこないに盛り上がるのか?不思議ですね。実は筆者のMu先生と私(jo)と現地にお住まいの、ほかもどりさんの三人で23件のコメントになりました。実況中継が入るとBlogは俄然盛り上がりますね。Mu先生はご自分のBlogのアクセスを分析され、邪馬台国と卑弥呼の話題が一番アクセスがあるとの結論に達し、御客様(読者)のために今後は古代史中心に行くとの事です。(私が勝手にそう決め付けてるだけ)

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コンテンツ時代 ル-カスフィルム編

ハビタット タッカ-
1988年頃の話ですが、当時ル-カスは双方向映画の研究をされていました。先ず、コンピュ-タを使いゲ-ム風に複数のキャラクタを登場させお互いに会話が出来る環境を作り(ビジュアルチャット)お客がそれぞれのキャラクタになり手元のコンピュ-タの端末で会話を入力する、そしてシナリオの存在しない物語をお客様に作って頂くライブ映画の製作をしていました。そのプロトタイプをベ-スに当時の開発途上でしたFM Townsで製品化出来ないか?これをネットワ-クゲ-ムに出来ないか?そんな発想で交渉に乗り出しました。サンフランシスコの北、金門橋を越えて少し北に行くと、ル-カスの本拠地”スカイウヲーカ ランチ”があります。広大な山を買い取り、所々に民家風の建物が点在しています。ここが、ポストプロダクションの本拠地なのですね。まるで、広大な牧場です。仕事場というか、普通の自宅のようなもんですが、そこで仕事をします。猫もいるし、なんら自宅と変わりません。しかし、ポストプロダクションのコンピュ-タ設備は驚きです。あまり詳細にここで描写すると企業秘密に触れますので割愛しますが、巨大なサ-バと各作業の部屋は高速LANで結合され、ロスとか色んな場所で撮影されたラッシュフィルムをここに集結し先ず、全てをデジタル化します。そして、ポストプロダクション作業が開始されます。音も世界各国の言葉で複数トラックに録音して行き、並行して作業を進めます。作業に入ると数ヶ月はここで缶詰になるので、普通のコンクリ-トの事務所では発狂してしまいます。なるだけ、人間が自宅で住んでいる環境を提供しているんですね。私は、当時、タッカ-の映画のポストプロダクションも終わり、映画が完成した場面に遭遇しました。コッツポラ監督作品、ル-カス提供でしたが、その完成式に立会いました。先ず、制作に関係した人々だけで観賞するんです。映画館はこの牧場にあるんですね、部屋はナパバレ-のワインを醸造した樽の板を張り詰めた壁で覆われています。ほのかなワインの香りがします。巨大な米国の自動車産業に立ち向かったヒ-ロの話で、フロントのライトが三つあるんです。ご存知の方々もおられると思います。最後にパ-テイですね、私も、記念品の車の模型を頂き製作者の皆様とワインに酔いしれました。物創りを終えた喜び、映画が売れようが売れまいが関係ない・・・満足できた映画が出来たこの職人の喜びが底から怒涛のごとく湧き出す喜び!まさか、私がその後映画のプロヂュ-サをやらされるとは夢にも思いませんでした。その後、プロトタイプの双方向映画の素材は姿を変えて、私の同期の愚直の親友である福田さんが”Fujitsu HABITAT”として世の中に出しました。Townsの目玉の商品としてです。仮想空間での街作りのゲ-ム様式を踏まえていますが、文化人類学的にも多くの波紋を呼び、大学の先生方が研究テ-マとされました。

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少年 特急”つばめ”に乗る!

前回の少年の冒険編が好評を得た(単に京都の暇な親爺が言ってるだけ)ので、続編を語りたい。

小学生の頃には私の家が特殊で人里離れていたのと、言葉の発達が人並みから遅れ4~5歳迄言葉が喋れませんでした。母は本当に心配したそうです。従い、友達は犬のメリ-しか居ませんでした。そうそう、鶏もいましたねそれから、卵を盗みに来る蛇。(どいつもこいつも喋れへん)

(言葉を喋れるようになる)

しかし、小学校に入学する頃から少し,喋れるようになったそうです。けど、友達はいないのと言葉があまり出ないので、1~2年生の頃は厳しい女性の先生に黒板消しで顔を殴られました。(多分悪さをしたんでしょうね)顔を真っ白にして、立たされていると優しい男の子が顔を拭いてくれました。彼はその後、同じ寝屋川高校に進学、大阪市立大学の経済学部に進みました、友人です。

私が許せないのは”えこひいき”をする女性の先生でしたね。子供は繊細なのです、すぐに判ります、グズで言葉が喋れない子供は許せなかったんでしょうね。(当時はそう考えていましたが、いたずら坊主だったんでしょうね)でもご安心下さい、時代は下り私が大学に行くようになった時にこの恨みつらみの先生の女子高生の娘の家庭教師をしたのです。でも母は死ぬまで先生を許しませんでした。

(爺先生に出会う)

小学四年生に進級した時に世界は一変しました。其れまで、二人の女性の先生だったのが始めてお年寄りの御爺ちゃん先生になりました。この御爺ちゃんは冬には教壇にカンカンを置いて、火を焚くのです。授業中ですよ、タバコを吸いながらメラメラと紙を燃やして暖をとるのです。当時、暖房はありません、底冷えのする木造校舎は隙間風がピュ-ピュ-入ります。寒かったんでしょうね、御爺ちゃん先生は手をかざしておられました。私は、にわかに勉強に目覚め其れまで通知簿は1~2(これ最低)ばかりでしたが、突然にオ-ル5(最高)になりました。男の子は本当にちょっとした事で気分が変わるんです。

あれあれ、話が脱線して本論が出てきませんでしたね、こんな折、未だ通知簿が1~2ばかりの頃の話しですが、母方のおばあちゃんの一周忌で私は母に連れられ、何と”特急つばめ”に乗り一路東京を目指したのでした。

(特急つばめに乗る)

今では”のぞみのグリ-ン”てとこでしょうね。母と二人(犬も鶏も蛇も何時もの仲間は無し)で京都駅で乗り込み胸ドキドキ一路東京へ!御弁当を食べ、みかんを食べる、トンネルでは窓の隙間からもうもうと煙ガ入ります。そう石炭で走る汽車ポッポなのですね。

(石炭煙で顔は真っ黒)

母が笑います、私の顔が煤で真っ黒で、北河内弁で喋るが言葉が未発達だから他人から観ると極めて面白いそうで、周りの人々の笑を受けていました。私を襲った不幸はトイレでした。汽車ガ揺れるので、トイレで立って小便が出ない!どうしても、オシッコが出ない!何時もは、田んぼの畦道で蛙の顔とかミミズに面白おかしくオシッコをしていた自分が思うように行かない。その後、どう始末をしたか、遂に、狭い空間だからオシッコが出ない結論に達し、外のデッキで暗闇の空間目掛けて出たそうです。ホンマ面倒な奴でしたね。

(東京に着く)

さて、jo少年が江戸に到着、京では見ない丸い大きな”ベッタン”巨大な”板チョコ”高価な”ピストル”朝早く売りに来る”なっとう屋さん”・・・・・・目が丸くなって、メリ-の待つ田舎に帰ったとさ!

そうそう、忘れていました!不思議なことが起こったのです。

東京は品川は上大崎の母の妹のお家でおばあちゃんの一周忌の行事の時です、ロ-ソクが溶けて、ロ-ソクの形が、はな垂れ少年の目にはおばあちゃんの姿に映ったのです。大きな声で騒ぐと一同の大人達が集まり驚いて拝んでいました。多感な少年時代の話でした。特急つばめ

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不思議なキノコ(小学生の想いで)

招堤村に住んでいた子供の頃の不思議な思い出話です。

私の自宅は人里離れた一軒家でした。お茶の製造工場と竹の子の缶詰工場でした。忙しい時期以外は母と愛犬メリ-の三人で昼間は生活していました。何時も母の後にメリ-と一緒にくっついていました。広大な庭には鶏を放し飼いにしており、私の仕事は勝手放題に卵を産む鶏の卵を回収する仕事でした。

(卵回収が仕事)

これが、難しいのです鶏は色んな所に産むもんですから捜索しなければいけない。夏には強敵の蛇ガ卵を狙いますますから、蛇に取られる前に回収が必要です。イタチは夜、鶏が睡眠している鳥小屋を狙います。朝方に無残に殺された鶏に会うのが可愛そうでした。

又、お客様が来ると近くの御百姓様に頼んで鶏を締めてもらうのです、これも可愛そうでした。けど、生まれる前の卵が沢山、数珠繋ぎで存在する事を学びました。大きさが段々と小さくなるのです、”あ~このでかいのが実は明日生まれる予定で、これが、明後日とか・・”。

(マムシ焼き、雀ピン焼き)

そうそう、近所の御百姓様は蝮を捕まえて来て、私のところの庭で皮を剥いて焼いてお食べになるんです!これも、怖い経験でしたね。伏見稲荷の神社の屋台では”ピン焼き”が名物でしたね。これ、雀の焼き鳥なんです。ご存知ですか?小さいです、米国駐在時代に中西部(シカゴの南西でデモインという土地があります)の広大なトウモロコシ畑で丸々と太った雉を見ましたが、これは焼き鳥にすると美味だろうと思いました、そのときも伏見稲荷の雀の焼き鳥を思いだしました。

(異星人との遭遇)

人間とは自分のリアルなる経験としか比較出来ないのですね。雀と言えば、沢山の雀ちゃんが工場の屋根の樋に巣を作るんです。ところが、雀の赤ちゃんがどういう拍子か墜落してくるんですね。卵の回収をしてると、良く
丸裸の毛のない宇宙人みたいなグロテスクな生き物と出会いました。子供ながらに、異星人との遭遇でした。

夏には田んぼに蛍が舞い飛び、秋にはうまし国ぞ秋津島大和の国宜しく、トンボの群れを追いかけました。小学生になり徒歩1時間くらい離れた(自宅が離れてるだけ)殿山第二小学校に通学です。この田んぼの道が楽しい通学路でした。

(野つぼの恐怖)

至る所に野つぼ(注:うんちを貯めて置く場所)があり、これに間違って落ちてはいけない!落ちると、名前を変える必要があると言われました。田舎の道は複雑でボヤ~と歩いていると、農家のお家に入ります。何処が公道で何処が私道か判らん!そこで、本日のお話しのクライマックスが来ましたよ。

『不思議なキノコの話です。』

多分梅雨時か秋か忘れたけど、田んぼの畦道を歩いていると、サッカ-ボ-ル位の大きな丸い不思議な物体に出会います。これを蹴飛ばすと真っ白な煙が出るんです。面白いので自宅迄、延々とドリブルしながら、蹴る!煙が出る!走る!蹴る!煙!・・・・疲れ果てて、自宅に着く。この不思議なキノコは小学生の五年生で引越しで牧野に移るまで、ある時期は必ず経験していました。

え?写真が無いのか?残念ながら当時は写真が未だ発明されていませんでした!これは、虚ですが、このキノコの話は本当なのです。え?余り面白くなかった?けど、この記憶が私の小学生時代随一の思い出なんです。最後に、自宅の近く5~6百メ-トルに近ずくと、私の足音を聞きつけ愛犬メリ-が飛んで迎えに来ました。

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将棋の話

関西では普通、子供の頃に縁台将棋でル-ルを覚え、多少は出来るもんですね。私の場合はどういう訳か駒の動かし方も33歳になるまで知りませんでした。とある日曜日のNHKのお昼の番組でプロの棋士が凄まじい戦いをしている光景を見たのです。片膝を上げて、凄まじい血相で駒を相手陣地に打ち込む!相手も負けじと打ち返す!終盤の迫力ある場面でした。その頃まで描いていたイメ-ジとは大いに異なる風景でした。相手の鼓動ガ聞こえてきそうな迫力で、圧倒された。感激しましたね、男らしいと!その傘張り浪人のような棋士は升田幸三さんでした。私は次の日には代々木の将棋連盟に行き、将棋を始めた次第です。マニュアル本も沢山買い込み、将棋世界、近代将棋と二冊の雑誌も購読するようになり、1年後に連盟より初段の免許を頂きました。大山さん、中原さんのサイン入りの立派な免状でした。そのうちに、将棋の歴史に興味が移り、当時大内八段さんも将棋の歴史に御興味があり、彼の本を読んだり、調べました。インドで発祥した将棋は西洋に伝わり、チェスとなりシルクロ-ドを伝わり中国に象棋として伝わりました。インドから海のル-トでも東南アジア経由でも伝わったそうです。チェスは獲得した相手の駒は使えないが、将棋は使えます。これで、ゲ-ムがまるで異なる事となりましたね。将棋は奥が深く複雑になりました。今ではチェスの世界ではコンピュ-タの方が強いですね。将棋は未だ、今のCPUの速度と記憶装置では無理そうです。プロの棋士は論理を読むのではなく、形(盤面)、イメ-ジを読むそうです。パタ-ン認識ですね。だから芸術家なのです。だから、将棋盤が無くても二人で将棋を指す事ガできるのですね。七六歩,三四歩、ニ六歩、八四歩・・・と。お陰さまで、中原さんに王座戦では近くに観戦で座らせて頂いた。コンテンツ時代にはCD ROMでプロの棋譜を収録した”プロ将棋シリ-ズ”を出版する事になりました。居飛車の戦編、四間飛車の戦編、・・プロの年間棋譜で各戦法に於いてどのように戦ったのか?所謂デ-タベ-スソフトですね。あまりに、専門過ぎて売れませんでした。

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ワンゲル同期同窓会

2004_04160016.JPG久しぶりに大学時代のワンゲル同期が集まった。右端が阿知羅どん(星和ビジネス 社長)、中央が吾朗ちゃん(日本GPSデ-タサ-ビス 社長)で昔、共に後立山連峰 鹿島槍ヶ岳に山小屋を建設した仲間である。残念ながら4回生の時に副将の故 正井どんを奥穂高岳で滑落事故に遭遇し友人を失った。今でも昔の苦しくも、楽しかったワンゲル時代が懐かしい。テントの中で先輩の難しい哲学の話(キルケゴ-ル、サルトル、三太郎の日記、etc)を聞かされ、チンプン・カンプンであった頃を想いだす。

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空海さん

2004_04160017.JPG娘に頼まれて仏蘭西の旦那の面倒をみた。東京国立博物館で丁度、弘法大師入唐1200年記念の”空海と高野山”特別展示があり訪問した。

中学生のワンゲル時代には金剛山とか高野山(女人禁制)によく山登りをした記憶がある。

社会人になっては色々な書物で大師さんの歴史を勉強するようになった。先ず、司馬遼太郎さんの本で入唐の小説を読み、司馬さんの友人の陳舜臣さんの小説”曼荼羅の人-空海求法伝”徳間文庫(上、中、下)を読んだ。多分、トンデモ親爺(Mu)が好きなのは、榊莫山(さかき ばくざん)さんの小説”空海書韻” 美術公論社 ISBN4-89330-109-8 C0093 (2100円)でしょうね。

昔から疑問であったのは、彼の海外出張を自分の費用で賄つた事です。最澄さんは国費留学生。莫山さんは高野山系の水銀集団、丹生族がかれのスポンサ-であったという説です。大師さまの歩かれた西国88箇所も鉱山との関係が深いそうですね。

仏蘭西人には空海さんを”日本のレオナルド・ダビンチ”と紹介しておきました。娘夫婦は東北旅行をして、数多くの”生き仏さん”を見てきたそうなので、空海さんが最初の”生き仏さん”やで~と紹介しておきました。しかし外人に金剛界(Diamond World)とか胎蔵界の曼荼羅を説明する知識ガ無いので苦労した。

しかし、金剛峯寺という寺は”山の正倉院”と呼ばれるだけのものは、ありますね。国宝の宝庫でありました、感激。密教の正当を恵果和尚から引き継いで見事に日本で花を咲かせたもんです。

展示場で気になったのは、密教の秘儀と言われるツ-ル類ですね。最後に展示場でお年寄りの御婦人に質問を受けました。”あの~大師さまの生涯の履歴に何時身罷れたのか記述ガ無いのですが??” 私は、御婦人に

”今でも大師様は生きておられるのですよ!”と。

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Kansai-jin 研究

 私もこの歳になるまで、世界中を渡り歩いて来たが関西人は実に奇妙な思考方法をするし、行動も奇妙である。何故にその様なDNAを持つのか? ここは歴史家joとしては迫ってみたい。

この分野については、真面目な学者さんが研究をされているので、邪魔する積もりは無いが今後も研究を続けて行きたい。

 (従来の説)

 先ず、通常の学説は(1)戦国時代から江戸時代に侍(お上)に支配されていない。江戸時代でも浪速には侍が200人しか居なかった、市民自治組織で運営された。従い官僚的発想が無い、全て経済的にも自立した考え。

 (2)毎日厳しいお金の交渉をしているので、そこに、少しでも刺が立たぬよう独特の会話手法が発達した。

 (3)価値観として、得か損しか存在しない。電車の中で学生が会話しているのを聴くと、よく 『あ~~得したわ!』『あ~~損したわ!』と言う会話が聴こえる。

 (4)せっかちである。信号が変わるか変わらないうちに、横断歩道に飛び出す! 関東では見られない現象である。何故急ぐか! これも商業の国の厳しい環境が刷り込まれた・・・と言う説。

 (5)社会道徳が極めて低い。ホームで関東のように列をつくらない、割り込む。これも、可哀相な得と損しか持たない民族の悲哀である。・・・・・・等々。本当にそうであろうか? 私は関西人が今後の21世紀のグローバルな時代には重要な役割を担うと考えている。時代を大きく変換する時は必ず京都が舞台になる。

 (事例研究)

 さて、今回は作家『浅茅ヶ原先生』を実験材料にして研究してみましょう。結論から述べる。 (1)関西人DNA1:関西の男性は先ず女性にもてる事を第1に考える。(2)関西人DNA2:関西の男は第三者の男性を利用して女性が自分に近寄るように戦略を練る。

 事例で証明しましょう。 Mublogを参照してみましょう、先ず、『京都駅』のblogですが、先生は先ず誰でもが感心ありそうな、京都駅を題材にあげる。先ず大事な事は興味対象を専門的なものに絞らない事である。

 そこで、阿呆なjo氏が突拍子もない馬鹿な話をする。(駅空間でラジコン飛行機大道芸をして金の儲ける話)、ここで、通常の関西人以外であれば、馬鹿な話なので適当にあしらうのが得策と考える。

しかし、先生は違うのです、joは単なる利用すべき男であり、すかさず、この馬鹿な提案に乗る。更に、話を盛り上げる戦略に出る。馬鹿な提案を褒め、更に話題を拡げる。この様に褒められるとjo氏は有頂天になり、先生は自分の事をよく理解してくれる人だと考える。

 ここで、仲間意識が生まれ、更に話題が馬鹿話を掘り下げる方向に向かう。そうこうしてるうちに、女性が近ずいて来る。そうすると、jo氏は不要である、すかさず、女性を取り込む行動に出る、素早く無ければいけない、もたもたしてると、阿呆なjo氏に取られてしまう。そこで、ここからは、jo氏を見捨て、ひたすら女性を相手に対応する。

 実は、先生のMublogでの行動を分析されれば、殆ど、阿呆なjo氏との会話はこの行動原理に支配されている事を理解出来る筈である。

  (結論)

 実は、この行動原理は平安の昔から延々と続いた風習なのだ。如何に手紙で女性の気を引くか! あの手この手を考えて『詩(うた)』を作る。先ず、今回は日本の原点である母系社会で守られた世界で男が如何に苦労して生きて来たか! この悲しい歴史DNAが関西人に化石のように残存しているのである。(1話 終わり)。

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初夏鶴見川 電動機2機

Cimg0005.jpg 2002年の1年間は『赤とんぼ』横浜組3人(加藤、若生、jo)は電動機(モータで飛ぶ飛行機)に凝りました。私は1年間で10機を制作して飛行させ、墜落大破を繰り返し、結局今は2機しか生存していない。写真の2機は加藤さんの飛行機と私の飛行機ですが、2機とも今は存在しない。両機ともに400クラスのモータを搭載し、電池はニッカド8セル搭載した、スタント練習機です。週末の早朝6時頃から飛ばし始め、朝日を浴びて遠く富士山を目指して飛ばします。ここからは新横浜スタジアム、その傍遥か彼方に霊峰富士が望めるんです。ちなみに拡大すれば判明しますが、粗雑な制作をした飛行機が私のです。

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”えつ”南蛮漬け季節料理

2004_04140010.JPG  この料理はエコ-電子社長の小林社長に御馳走になりました。普段は有明海に住んでいるそうですが、産卵で筑後川を遡上するそうで、4月のお料理です。南蛮漬けにして食しましたが、美味でした。

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これが”えつ”の料理前

2004_04140011.JPG お店の女将さんがわざわざ料理前の”えつ”を持って来て下さいました。これが有明海で生息しとる魚なんですね。京都の料理”鱧”に似てやたら小骨が多そうですね!包丁で相当小骨を切らねば無理そうですね。この魚は”幻の魚”と呼ばれていました。有明海にしか存在しない魚で”カタクチ・イワシ”の仲間で、絶滅危惧種に指定されていたそうです。最近は筑後川で養殖を行い子供を放流して増やしているそうです。産卵の為に筑後川に4月頃遡上し漁をするそうですよ。

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コンテンツ時代(清明上河図)

 浅茅ヶ原の旦那より、コンテンツ時代の話を所望されているので、恥ずかしい歴史ですが私が特に関係したものに触れて行きたい。

 先ず今回は台北の故宮博物院と台湾のLee&Lee commmunicationsの会長、総経理の人々との出会いによる作品群に触れてみたい。

  『清明上河図(せいめいじょうがず)』のCD ROMを出版した。この絵巻物は中国の人々にとり、心の故郷と言われています。中国の人々とお付き合いされるならば、先ず、この絵巻物について知識が無ければ到底本当の腹を割った付き合いが出来ません。それだけ、中国の人にとり重要な作品だそうです。

 理想とした国家の姿、繁栄した都、人々の活気に満ちた風景、この様な世界に誇れる国が中国である。この作品は北宋の都ベン京(現在の開封)の風景を描いた長尺の絵巻物であり、原作は北宋の時代に画家『張択端(ちょうたくたん)』が描き、今は北京の故宮博物院に保管されている。

 その後、歴代王朝はこの絵巻物を描き続けて、台北の故宮博物院には清王朝の乾隆帝の勅命により宮廷画家たちが描いたバージョンが存在します、私は近畿大学教授の古屋先生の御協力を得てCD ROM版を出版しました。 (概要) 絹本、高さ35.6cm,長さ1152。8cm 1736年(乾隆元年)12月15日完成

ISBN4-89446-747-X C1871 この絵巻物に惹かれたのは、当時(北宋時代)の都の有り様が克明に描写されている事です、人物、動物、建物、・・・・・・・CD ROMではこれらの詳細について、絵巻物を楽しみながら検索できるようにしました。できる限り、中国の人々の気持ちを伝えたいと思いました。 CD ROM 清明上河図

 この絵巻物は北宋の時代より日本にも影響し、数々の繁栄した都の模様を細密画で描くようになりました。 撮影秘話としては、この巻物は保存の為に何人たりとも巻物を開く事は許されません、今回の出版にあたり初めて撮影が許され、巻物を開く時に1回、巻き戻す時に1回と2回の撮影が許されました。故宮が誇る至宝中の至宝です、台北故宮での発表会への出席、日本での発表会と燃えていました。

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アンテナのある風景(取材番組)

DSCF0006.JPG 昔のハム(アマチュア無線)の仲間の近所の風景です。今日はデジカメを購入した(2万円で特売、310万画素、3倍光学ズ-ム)ので多分に浅茅が原の親爺が取材旅行してるので、向こうを張り、近所を取材。大きなアンテナが鉄塔の上に聳えますね、5エレメントです。多分、21MHzと28MHzのデイユアルバンドでしょう?コイルガ見えるでしょ?ここで28MHzを同調させている筈です。これは指向性の強い八木アンテナです、電波の供給/受信は長いエレメントの2番目にあります。一番長いエレメントが反射(レフレクター)エレメントです。導波エレメントが3本前にあります。隣の同じく小さめのアンテナは50MHzのアンテナでしょう。そして、垂直に伸びるバ-テイカル・アンテナが見えます。多分、144MHzか430MHzのアンテナと想定されます。暇な親爺だと思われそうですが、実は、私もハムでした。米国ではN6IHE(ノルウエイ・シックス・インデイア・ホテル・エコ-と発音する)の免許でガンガン無線を楽しんでいました。私は、電信も得意でかなりDXCC(世界の国々と交信して記録を競う)でも頑張った。近所の村山OM(電通理事さん)とか同じく電通の松本OM(JA1XXX)諸先輩と神奈川28MHzネットで楽しんだ。アンテナを見ると、その人がどんな人なのか気になる。

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仏様飛行機に乗る!

CIMG0007.JPG とにかく、無事飛行機を飛ばしたい!唯、その一念である。重心が後ろなので、エンジンにダ-スベ-ダ-の人形を抱きつかせ針金で巻きつけて、何とか重心を前に確保した。しかし、仏様のお守りも無く後日千葉の飛行場で墜落,大破となり引退となりました。

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桂林紀行(続編)

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桂林紀行の続編です、中国の強いお酒に酔いました。歴史の風に晒し頭を冷やしています。

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少数民族

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少数民族の村がありました。璃江の中洲にあります。

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桂林紀行(続編)

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今は無き銀座『TORIFUJI』ワインハウス

Cimg0018.jpg 銀座『TORIFUJI』さんは、友人の鎌倉さんに紹介を受け通いました。残念ながら昨年?閉店されました。カリフォルニアのワインが沢山ありました。一度、K専務がおられる時に50年もののスペインのワインを飲みました。写真は、以前御紹介した鵜飼さんを囲んで、紙切れ持ってるのが中尾君(米国時代同僚)、水野さん(コンテンツ時代同僚)の懲りないメンバです。あ~~~
美味しかったな。一番奥が鵜飼さん。

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おなか空いた?

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FLY Baby動画劇場

私が制作した 『蠅の赤ちゃん』と呼ばれる、飛行機です。昨年(03年)夏に合宿をした時、栂池スキー場でフライトした時の模様です。パラグライダーの人々と仲良くして(千葉産のスイカを彼らに贈呈し、友好関係を樹立)同じ場所で遊ぶ。
この飛行機にはOS FS30(4サイクルエンジン)を搭載し、実機の雰囲気を楽しむ。ナレーションは若生さんで面白い解説なので、是非、スピーカで音量も上げて楽しんで下さい。この栂池スキー場もかなり標高がありますが、ここからリフトで是非もっと上迄あがれば、綺麗な高山植物のお花畑がお待ち申し上げていますよ。今年の、夏には多分『赤とんぼ』のメンバが飛行機飛ばしていますので、お立ち寄り下さい。(差し入れ歓迎、操縦無料体験、山小屋での男の料理、記録感動ベイデオ無料鑑賞、特典有り) 栂池の夏
・・・・済みません、次回この解説場面を上映します・・・・・(うかつだったビデイオ確認せずに違うビデイオ解説してしまった!だけど、オリジナルが有るんです!かとさん急がんでええからね!)

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林 あつむ先生との出会い

林先生とは5~6年前に会社の同僚の内山氏(現 マ-ベリックコンサルテイング社長)の御紹介で巣鴨の居酒屋で初対面した。その後、直接の仕事では御一緒出来なかったが1年前頃より御一緒に”AUC”(活動原価管理 経営可視化パッケ-ジ)の御仕事をさせて頂いている。先生は年間100日は海外のとりわけアジアの諸国に企業展開されている日本の製造業様のコンサルに出かけられている。20年以上日本の製造業様とりわけ組立製造業様を相手に会計システムの構築をされてきた。私は特に原価計算と聴くだけで、大学時代の嫌な思い出が巡ります、分厚い本を読まされ、特に、当時 神戸大学経営学部に溝口教授が原価計算を担当されており面白くない講義と勉強を強いられました。結局何も理解出来ない侭卒業となりました。それが5~6年前にひょんな事から林先生と酒席でお会いし、何か昔の原価計算とは少し違うように感じ先生の書かれたABC/ABM 活動原価管理等の本を読ませて頂き新しい世界を知りました。コンピュ-タとネットワークの進化により多分に、昔から理論は存在したのでしょうが現実的にそれが実現できる環境が出来たんでしょうね。企業の構成員が如何に付加価値高い仕事を毎日しているかをデジタルに表現する技術はまさにこれからの日本の企業が国際時代に生きて行くか鍵を握る重要な課題ですね。総合原価管理、標準原価管理と呼ばれる伝統的原価管理の世界と林先生が提唱されておられる個別原価管理、活動原価管理の世界は新たな世界に突入したように感じます。私も、1998年頃に2年間程当時神戸大学経営学部の助教授をされていた宿南さんのサポートで”情報通信産業論”非常勤していました、今も群馬大学 社会情報学部で学部長の田村教授に頼まれ非常勤をしていますが、学生諸君と夢を語るのが好きです。話はそれてしまいましたが、毎度林先生にお会いする度に、熱く語られるその姿がとても好きです。先日鵜飼先輩(以前blogで紹介済み)と久しぶりにNIFTYの社長の御子息ガ経営されている恵比寿のベトナム料理屋”We”でお会いし、其の時に気になる事を聞きました。彼がスタンフォ-ド大学の本屋ではハードカバ-の本が山積されている、それを学生諸君が読む、それに引き換え、日本の大学はどうか?How To物の本が沢山並べられている。これでいいのか?
鵜飼先輩は66歳、其の時彼はスタインベックの英語版の小説を読んでいました。

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王仁博士とカグヤ姫伝説

私の故郷の話の続編です。

招堤村から東方面に山を越えると長尾駅があります。片町線ですね、木津駅から祝園駅、京田辺、長尾駅、そして鴫野駅に繋がる鉄道です。昔は長尾までは山を越えて大変な道でしたが、今は舗装され便利になりました、その長尾の駅の傍に両親のお墓ガあります。そのお墓の前に(伝)王仁塚があります。

このあたりから続く京阪奈丘陵はミマキイリヒコ(崇神天皇)の時代より和邇氏の拠点の一つでした。その後、ここから其れほど離れていませんが枚方の禁野、中宮辺りに時代は下り新羅,唐連合軍に敗れた百済の王一族は移住してきます。近世では禁野に火薬庫があり大爆発をした事は有名です。ヲホド王が樟葉に入れたのも、古くからこの辺りに勢力を持つ渡来系の人々を見方につけたからだと思います。

もう一つ朝鮮半島は遊牧民の文化が色濃く残る風土があります。枚方を流れる“天の川”です。 枚方・交野ロマンチック伝説

彦星を祭った岩の牛石とか織姫を祭った機物神社とか天の川を挟んでロマンチックな伝説が残っています。長尾駅の隣の駅は京田辺です、ここにも同じく第9代開化天皇の御孫さんの娘として迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)の伝説がありますね。南山背から木津川を挟み樟葉、枚方、交野、長尾、京阪奈丘陵と続くあたりは異国文化の花咲いた場所なのですね。

そうそう、カグヤ姫で思い出しましたが石清水八幡宮の孟宗竹は有名ですね、カグヤ姫にぴったりです。そのカグヤ姫の竹をエジソンさんは八幡さんから取り寄せ、電球のフィラメントに使用した話は有名です。

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大和国原望景

門脇先生の”新版 飛鳥 その古代史と風土”平成2年版が手元にあり、甘樫岡の上の眺望案内銅版の拓本を眺めています。

蘇我氏が宮殿を築いていたと言われる場所から、大和を俯瞰します。

結論は東西線から南は蘇我氏関連の都、及び歴代大王の古墳があります。しかしこの東西線より北側は鬼門に三輪山、北北西は斑鳩の法隆寺です。

そして、大和盆地水田土壌形態区分図を眺めると甘樫岡より北側は多くのグライ土壌(強湿田)で覆われています。僅かに、箸墓近辺、巻向と山之辺の道あたりは免れています。三輪山付近とか葛城、二上山付近とかは人が住めそうだけど、ほとんど、沼地ではなかったでしょうか。

飛鳥は物部氏とか葛城氏とか大伴氏などに遅れて蘇我氏は河内から入植して潅漑を行い、人が住めるように開拓したんではないかと思います。ヲホド王が27年間も大和に入らない不思議がありますが、謎は当時の大和が其れほどGDPが高い魅力ある経済圏だったんでしょうか?欽明天皇の時代になり蘇我氏の開拓は終わり、水の都が完成したのではないかと思うようになりました。

樫原考古学研究所に大和盆地のジオラマがありましたが、是非、今度それに水を入れてみたいです。

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02年秋合宿風景(信州白馬)

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11月の後立山連峰(合宿点描)

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維新の女傑”おてい婆さま”

昭和61年8月 私の姉が嫁いだ旦那様の父上様(小川孝一)より書物5巻ガ送られてきた。”偲び草”と表紙に書かれた手書きと原資料の複写を印刷された本でした。

小川家は幕末時代の京都は三条の橋の近くで料亭”小川亭”を営まれていました。今は史跡として訪れることが出来ます。

NHKでは今新撰組の大河ドラマガ放映されていますので、皆さんも御興味がお有りかと、この小川亭について触れます。幕末の小川亭は勤皇の志士達ガ集いすぐ近くの池田屋と並ぶ新撰組ガ目をつけていた場所でした。小川亭はもともと肥後藩邸に出入りする肴屋さんでした。老主婦のテイさん(祖母)は勤皇ばあさんと呼ばれ、多くの勤皇志士の面倒を見られておられたそうです。

宮部鼎蔵、河上彦斉、桂小五郎・・・等々。池田屋事件の時は新撰組は先ず、小川亭に向かいました、そして池田屋を襲撃したそうです。

膨大な勤皇志士達の手紙がテイ婆さんはお持ちで、司馬遼太郎さんも小川家よりこの資料を貸して頂き、新撰組血風録とか幕末の小説の参考にされたと聴いています。

多くの志士は池田屋事件で死亡しました、亡骸全てをテイ婆さんがお墓に埋葬したそうです。手元にある5巻の資料は小川家の歴史を未来に残す為に整理、纏めをされた貴重な本だと思います。

御興味ある方は一度、京阪三条の駅から徒歩数分ですから鴨川沿いに下り、記念碑を訪れてください。何か質問があれば未だ、姉の旦那様も御健在ですので聞いてみます。浅茅が原先生はパソコン指導で一度訪問されましたよね?(その折は有難う御座いました)参考Web

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骨董キット! ムサシノ『ミニスペース』

クラブ先輩の大岩師匠から昨年、譲り受けた20年程昔のバルサキットから制作。ムサシノ模型の飛行機は多分、ラジコン飛行機をやる年配者ならば、必ず一度は制作した経験を持つ。それほど、魅力のある飛行機です、何か飛行機設計に哲学を感じます。私も、27~8年昔より飛行機をやっていますが、数多くのムサシノ模型の飛行機を制作、飛ばし、壊しました。スカイビーバ、スカイカンガルー、リトルホーク、ハミングカブ、・・・・等々。ムサシノ模型の飛行機の特徴は公園でも飛ばせるコンセプトなのです。エンジンでは素人が扱える最小の10、15クラスのエンンジンで充分飛ぶ省エネ飛行機で、今流の言葉で言えば『環境に優しい飛行機』がコンセプトでした。 赤とんぼの仲間達も数多くの、このムサシノ模型のバルサキットから飛行機を作り、そして、墜落しました。この『ミニスペース』は美しい姿で気品があり、気に入っている作品です。27年前が蘇りましたね。諸元: OS15LAエンジン、ミニサーボ4個搭載(エルロン、ラダー、エレベータ、エンジン制御)、 この飛行機も約1年間、新横浜と千葉の飛行場で飛び昨年秋、墜落大破し引退しました)

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私の飛行機 ムサシノ『ミニスペース』

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