明日から二週間ほど休載します

 昨日は朝から雪が降り今年初めての雪景色の大倉山となりました。こんな雪の中、鳥達...

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タニハ(丹波)は独自の王国だったか(4) タニハの都の変遷

 承前 タニハ(丹波)は独自の王国だったか(3) 竹野潟湖復元と遺跡群

 タニハ(丹波)の国は竹野潟湖の湊により栄える事になるが、先ず都として栄えたのは竹野川を遡上した現在の峰山盆地で栄えた。そして、4世紀末から5世紀の最盛期の頃には更に南の野田川中流域の大宮町・加悦町の盆地に移行したと想定され多くの遺跡群が残っています。

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 (竹野川下流部遺跡群地図)

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 (竹野川中流部遺跡地図)

・初期のタニハの都

 タニハの王国は海岸部の潟湖付近に王国を象徴する神明山古墳や銚子山古墳が築かれ、船で航海する人々にタニハの権威を誇示したと考えられる。そして、初期には竹野川下流域・中流域に都が築かれたと考えられる。その頃の中心はタニハの地名が残る峰山付近が中心であったと想定されます。

 ・大宮売(おおみやめ)神社と大谷古墳

 ヤマトで言えば、三輪山の神、大物主さんに相当するのがタニハでは大宮売神(おおみやめのかみ)であり女神である。神社の近くに小さな古墳(大谷古墳)があり女性を埋葬した遺跡として有名である。この神とその後、豊受大神と呼ばれる今来の女神が奈具社を中心に権勢を誇る事になる。しかし、最後はヤマトの天照大神と同様に、タニハを追い出され伊勢神宮の外宮に祀られる運命にありました。

 大宮町には弥生時代の小さな墳丘を持つ古墓が多く存在し、例えば、三坂神社古墓群や左坂古墓群からは沢山のガラス玉が発掘され大変な騒ぎとなった。全部あわせると、7千から8千にもなると森浩一さんは『古代史を解く鍵』で門脇さんとの対談で述べています。

 奈具岡遺跡からは弥生時代中期の玉造遺跡があり、緑色の凝灰岩に加え、当時としては珍しい水晶の玉を製造していた。これらは、祭祀用に製造されたものと考えられ流通商品としての製造工場であった可能性がある。

 ・弥生時代の高地性集落

 扇谷遺跡、途中ヶ丘遺跡は2キロも離れていない距離にある巨大な二重の濠を持つ長さ1キロの内濠に囲まれた高地性集落が存在する。

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タニハ(丹波)は独自の王国だったか(3) 竹野潟湖復元と遺跡群

 承前 タニハ(丹波)は独自の王国だったか(2) 紀年銘銅鏡の出土

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 タニハ(丹波)の国は主に竹野潟湖(たかの せきこ)と竹野川(たかのかわ)の水運による恵みである。竹野川河口域は少なくとも6世紀や7世紀の頃までは潟を形成していた。上記グーグルアースに表示した竹野潟湖の推定復元は『古代の日本海文化』(中公新書)藤田富士夫さんに従い記録したものです。

 森浩一さんの話では日本海の古代遺跡は潟を中心として海運で栄えたという論を展開されてる事は有名です。藤田さんの復元によれば、巨大な竹野潟湖が存在していたのです。古代の船は木造船です、海水に浸かっていると直ぐにフナ虫に侵され、船が航行出来なくなるそうです。従い、海に注ぐ川を遡上し船を停泊させたのです。しかし、大規模な船を遡上させる川は少なく、先ずは潟が湊として機能を始めた。

 ・竹野遺跡

 河口右岸には、標高5㍍前後の砂丘帯が竹野川の流れを遮り、その上に竹野遺跡が存在する。1986年の発掘調査で弥生前期、古墳前期、古墳後期の遺跡が検出され、発掘された。特に弥生前期の遺構からは陶塤(とうけん=土笛)の出土がありました。中国で流行した土笛で、西日本の弥生前期の遺跡からは出土するものです。楽器であり又、祭祀に使用されたと考えられ、大陸文化との交流を物語るものです。

 古墳前期の古式土師器は畿内の影響は殆ど無く、伯耆・因幡との関係が深いと考えられる。この直後に巨大な神明山古墳の築造が始まり竹野遺跡が文化の中心となる。

 ・大山(だいせん)墳墓群

 竹野川が潟湖に注ぐ入口の左岸丘陵上に弥生中期後葉から後期に方形台状墓、木棺墓、土器棺などが合計37基営まれた。

 ・神明山古墳(しんめいやまこふん)

 古墳前期末葉に竹野潟湖の東の丘陵に巨大な神明山古墳が築造された。墳丘長190㍍と想定され、潟湖の海岸線と平行に建造され白い葺き石で覆われており、航行する船からは目印となったと考えられ、ランドマークタワーであった考えられている。墳丘から出土した埴輪片からはヘラ描きで船を漕ぐ人物像が描かれ航海民と関係が深い人物が埋葬されたと想定されている。

 参考 京丹後市立古代の里資料館

 ・産土山(うぶすなやま)古墳

古墳時代中期、河口を見据えるかのように建造された古墳が産土山古墳である。直径50㍍の大円墳である。凝灰岩製の長持形石棺が発掘された。ヤマトではこの形式の石棺は大王クラスのものであり、この地域の大王に相応しい人物の墳墓であると考えられる。又、この古墳の近くで潟湖の傍に片山古墳があり、現在横穴式石室を観る事が出来る。

 海に突出した台地先端には13の円墳からなる大成(おおなる)古墳群があります。古墳後期の6世紀末葉から7世紀前半に築造され、横穴式石室を持ちます。

 ・地域の中心 竹野(たかの)神社

 神明山古墳のすぐ側に竹野神社が鎮座しています。潟湖に堤防を築き参道を作り竹野遺跡の台地まで続いています。参道は松の並木が並び、荘厳な雰囲気を作っています。航海の安全を人々は祈った場所だと考えられます。

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タニハ(丹波)は独自の王国だったか(2) 紀年銘銅鏡の出土

 承前 タニハ(丹波)は独自の王国だったか(1) 出雲と越に挟まれて

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 銅鏡に中国の年号が鋳されている銅鏡を紀年鏡と呼んでいます。今まで発掘された銅鏡の中では、青龍3年(235年)銘銅鏡は方格規矩四神鏡であり、3面(丹波の太田南5号墳、高槻の安満宮山古墳、出土地不明)出土しています。景初3年(239年)銘銅鏡は三角縁神獣鏡である神原神社古墳(島根県加茂町)と平縁神獣鏡である和泉黄金塚古墳から出土。

 魏では存在しない年号だが、景初4年(魏では景初3年で終わり、次の年は正始元年の筈)銘の斜縁盤龍鏡2面即ち、丹波の広峰15号墳出土と出土地不明鏡1面がある。

 正始元年(240年)銘銅鏡は三角縁神獣鏡3面が出土している、即ち、竹島御家老屋敷古墳、蟹沢古墳、豊岡即ち但馬の森尾古墳から出土。

 地図で発掘された遺跡に赤い印をつけましたが、但馬と丹波で3面、紀年銘銅鏡が出土しているのです。これ等の銅鏡が本当に魏の国で製造されたものかどうか議論のある所だそうです。

 従来何故、景初3年銘や正始元年銘の年号が注目されるかは、卑弥呼と関係が深いからです。邪馬台国の卑弥呼が初めて魏に使いを出したのが、景初3年であり大夫の難升米(なしめ)と次使の都市牛利(としごり)を送った。正始元年には帯方郡から魏の使者が倭国を訪問し詔書や印綬を下賜した。その後、邪馬台国は狗奴国と戦争状態になり魏は黄幢を難升米に与えたりしているが、正始8年(247年)頃に卑弥呼は死ぬ。 

 邪馬台国を考える上で如何に景初3年、正始元年、等々の魏の年代が重要であるか判りますね。そんな大事な紀年銘の鏡が不思議と但馬・丹波で3面も出土しており、且つ、不思議なのは丹波には巨大な古墳が存在するのに、比較的小さな古墳で出土しているのが謎となっている。

 森さんは、魏鏡である事に疑いを持っておられますね。理由は幾つかあるようです、例えば太田南5号墳で出土した青龍3年銘銅鏡では『顔氏作鏡』(注:鏡では漢字の簡略化が行われ鏡の漢字は金を省略している)とあり、魏の鏡では顔氏という制作者銘は存在しないらしい。(陳氏・張氏・周氏、王氏・朱氏は存在)

そもそも、魏では銅鏡に年号を鋳る事例が存在しないと発言されています。又、不老長寿を願う鏡なのに、『八子九孫治中央』と神仙思想とはかけ離れた銘文が鋳られている事に魏で製造された事に疑問を投げかけておられます。

 森氏が指摘しているのは、紀年銘がある遺物が出土した時に無条件でその年代の遺物であるという認識をしたり、その国で製造されたと考えるのは科学的でないと主張されているんです。例えばとして、日本の中世の遺跡、特に堺からは唐の時代の開元通寶の鋳型が出土し、多量の室町時代に製造した唐の時代の開元通寶の銭が出土してるそうです。

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タニハ(丹波)は独自の王国だったか(1) 出雲と越に挟まれて

 最近、丹後(丹波)王国論で有名な門脇禎二さんと考古学の森浩一さんの対談集『古代史を解く鍵』を読んで、知らない事が多く、気がついた事を記憶に留める事にした、是非、丹後半島を歩いてみたと感じた次第です。学生時代、ワンゲルの先輩と一緒によく丹波の山を歩いた記憶があります。しかし、その頃は此のタニハの地が雄大な歴史を秘めた場所である事を知らなかった。

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 出雲圏と越の国圏に挟まれた但馬、丹波・丹後、若狭の領域は森さんも、門脇さんも独自な文化圏を持つ領域であると考えている。西は城崎温泉で有名な場所に注ぐ円山川流域、即ち豊岡の但馬の国から、東は由良川流域までの地域を指している。

 この日本海に突き出た半島、丹後半島はまさに大陸に向かって止まり木のような形状ではないだろうか。寒い冬、北風とリマン海流に乗って簡単に朝鮮半島や大陸から船は日本列島に到着する。出雲から越の地域はまさに、大陸に向かった開かれた窓であった。その真中に位置するのが但馬・丹後・若狭ではなかっただろうか。

 昨年、12月に京都のMuBlogの旦那と継体天皇の陵墓と考えられる今城塚を訪問したが、その時に安満宮山(あまみややま)古墳も訪問した、青龍3年(235年)銘の方格規矩四神鏡が出土した古墳である。この青龍3年銘の方格規矩四神鏡が実は最初に丹後半島で出土していました。太田南5号墳と呼ばれる古墳です。(地図に印を入れましたので参照下さい)

 竹野川の流域は弥生時代から大いに開けた場所であるようです。大陸との交易を行った船が行き来した湊であったようです。現在は峰山と呼ばれる場所です、その場所が卑弥呼の時代に既に大陸と交易をする栄えた場所であった。門脇さんの説では、丹波(丹後)王国は最初は竹野川流域である峰山地域で栄えそして、4世紀後半から5世紀の最盛期には野田川中流域の蛭子山古墳や作山古墳のある地域に移ったと言います。

但馬・丹波・丹後・若狭の地域で有名なのは、浦島太郎の伝説と羽衣伝説、そして、あめのひぼこ(天日槍)伝説ではないでしょうか。

 ・羽衣伝説と伊勢神宮

 昨年、久しぶりに伊勢神宮を参拝したがその外宮でお祭をするのは豊受大神(とようけのおおかみ)ですよね、彼女は丹波から伊勢に招聘されたのです。この豊受大神というのは天女で帰り遅れたばかりに、老夫婦につかまり老夫婦の為にお酒を作る技術を教えたり、金銀財宝を与えたのですが、最後に捨てられるのです。そして、奈具社という所に籠る事になりました。

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自由が丘 『金田』での宴会

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 今日は哲ちゃんの幹事で自由が丘『金田』での宴会となりました。

 長年お世話になった『金田』の親爺さんは昨年亡くなられたそうです。何時も戸を開けると笑顔で迎えてくれて下さいました。御冥福を祈ります。

  参考 哲ちゃんのブログ(新年会)

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メキシコ紀行(2011年秋)(16) オアハカ篇(4) 死者の日のオアハカ市内

 承前 メキシコ紀行(2011年秋)(15) オアハカ篇(3) オアハカの石灰棚

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 メキシコの京都と呼ばれるオアハカの古い落ち着いた街並みです。

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 死者の日ですから、お店には骸骨さんがお客さんを待っています。

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 お店では死者の日の祭壇が設けられています。日本で言えば、死者が冥土から自宅に帰られるお盆に相当します。

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 オアハカ名物のチーズです。紐みたいなチーズを丸めて売っています、これが上等です。

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懐かしいメンバーの新年会

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 懐かしいタウンズ&コンテンツ時代のメンバー数名が新横浜に集まり新年会となった。

森田さんはわざわざ、明石から飛行機で来て頂いた。若手のヨッシー君も元気で外資系で頑張っている。実家は亘理で、昨年の震災で大きな被害を受けた。

 小島さんも元気で、来月は南極に出かけられるそうだ。キリマンジャロに登頂され、次は南極だそうです。

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私の散歩道  サギとメジロ君

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 メジロ君です、最近は色んな場所で見かけるようになりました。

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 一番多く見つける事が出来るのは、寒椿かさざんかか、判らないが椿系の花の所に居るようです。小さくて、ウグイス色の羽に真っ白な輪っかの目、可愛いです。

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私の散歩道 例のコサギとカワセミ君

 承前 私の散歩道 その後のコサギとカワセミ君

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