纏向遺跡 大型建物跡の解釈

 承前 纏向遺跡第166次調査現地説明会資料(桜井市教育委員会)  先日の纏向遺...

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平安京の玄関 京都駅

200911kyoto_066_2  先日、寝屋川高校時代からの親友と再会を京都駅でする事にした。彼は、直前に30分程度遅れると連絡があり一人、京都駅をブラブラ歩くことにした。

 塵一つ落ちていない見事に清潔な空間が駅の界隈に広がっていた。日本という国は何と清潔な国なんでしょうね、海外旅行をする度にその事が誇りであります。

神道には教義が無い、あるのは清め、潔斎の概念であると確か司馬さんが何処かで語っていました。信長の時代に来朝した宣教師も本国に日本は清潔な国だと報告していた記憶がある。

 外国人が多く訪れる京都駅、この日も朝から短パン姿にリュックを背負った若ハゲの青い目の外国人が行き交う、寒くないのでしょうか。

 若い中国人のグループが地図の看板の前に集まり、何処へ行くのか検討している。手には各自パンを持ち食らいついている、若者らしい姿だ。こんなに綺麗な場所だとゴミを捨てる事が出来ない。

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 何時もこの2階のカフェでビールを飲み広大な空間を楽しむのが京都駅の過ごし方です。

 何処か蒸気機関車時代の懐かしい鉄の時代のオールドタイムが蘇るようで、斬新なデザインである。気に入っています。

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この駅舎のホテルも静かで待ち合わせやビールを飲むには素晴らしい。  

 

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葛城の古代の記憶 

Photo_2  衛星から葛城地方を眺めた図であります。今まで一言主神社について何回か記事を書きました。そして、京都の太秦や糺の杜の下賀茂神社について葛城氏の歴史を辿りました。

 さて、葛城山と金剛山の麓に賀茂(鴨)氏に関わる場所が多いですね。金剛山は中学生のワンゲル部の時代からよく登山をした場所ですが、葛木神社が存在するのですね。

 どうやら、役小角時代以前は金剛山は葛城山もしくは高天山(たかまがやま)と呼ばれたようです。山頂の葛木神社の祭神は一言主の大神です。という事は、葛城山の麓の一言主神社の奥宮(山宮)という事になりますね。

 高天山と発音するとなると、麓の高天彦神社(たかまひこじんじゃ)と高天原(たかまがはら)が気になります。さて、高天彦神社とは何でしょうか。

 (高天彦神社)

 この神社は延喜式では最高の社格を持つ神社だそうで、祭神は高皇産霊(たかみむすび)の神であり葛城氏の祖と言われている。古事記で述べる天照が住む天上の地がこの場所であると言うのでしょうか。神社の傍に高天原(たかまがはら)という地名が存在します。神社の名前からして高天山に住む男性の神となりますね。

 しかし、地上に降臨する前の神々の場所が存在していいのでしょうか、是非、一度は訪れて確認しないといけませんね。中学生の頃にもっと歴史を勉強しておれば良かったですね、ワンゲルで山を歩くしか能が無かったのが悔やまれます。

 (鴨の上社・中社・下社)

 衛星写真を見ると高鴨神社(上社)と葛木御蔵神社(中社)と平野部に鴨都波神社(下社)と三か所に鴨の神社が存在します。この上社の高鴨神社の社格も延喜式によれば大神神社や大和大国魂神社と肩を並べる程高いそうです。鴨氏の祖霊を祭っているようです。神社の由緒を読むと鴨氏は神武天皇を八咫烏(やたがらす)となり熊野からヤマトに案内し神武・綏靖・安寧天皇の后をさしだし葛城山麓に葛城王朝の基礎を作ったと述べる。

 しかし、私の古事記の解釈では神武さんには日向時代(薩摩半島 吾田隼人)の嫁さんとヤマトに入植してからは、淀川右岸の三島(現在の高槻市)にいる大物主さんが現地の豪族に産ませたヒメタタライスズヒメさんだと思います。(しかし、日本書紀と先代旧事本紀では事代主神としており鴨の祖と考えがあるのかもしれない)。

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『坂の上の雲』 第二回 青雲

 承前 『坂の上の雲』 第一回 少年の国

今回は真之と子規が大学予備門に入学出来て必死に勉強する場面が中心でした。二人は一緒に暮らし始めた。英語が苦手な子規に対して、秀才の夏目漱石が登場します。子規と漱石の出会いが始まった。当時の大学予備門に入学出来て勉強する人は秀才中の秀才だったでしょうね。まさに、将来の日本を背負って立つエリートと人々は考えていたと思う。

 若い頃の1年は年寄りの10年に匹敵するほどの強い印象を残すと思います。あらゆる新しいものを吸収し、異文化に憧れ吸い取り紙に水が沁みこむように膨れ上がる。友との絆も生涯のものとなったと思います。皆さんの経験でもそうではないでしょうか。あの新撰組の青年の激動の経験もたった2年少しの期間だった訳ですから、如何に青春時代は短く炎のような大事な期間であるか判ります。

 大学予備門入学の祝いの席に旗本の娘が鯛を祝い膳として出す場面がありましたが、まさに将来は大臣か博士の卵と映っていたと思います。そんな真之も中退し海軍に行く事を決める。

 (メッケルとモーゼルワイン)

Photo  好古の陸軍の学校ではドイツから招聘した日本陸軍創設の祖と呼ばれるメッケルさんが登場していました。

 彼はモーゼルワインが大好きで赴任の条件だったようですね。彼の故郷であるトリアー(Trier)はドイツ西部のモーゼル川のほとりの古い街、ドイツでは数少ないワインの産地だそうです。

 グーグルアース トリアー地図

「Trier.kmz」をダウンロード ちなみに、私が数回でかけたフランスのブルゴーニュのワインの産地と地図で比較して下さい。随分と緯度が上である事が判りますね、赤葡萄酒は寒くて出来なくてリースリング系の白葡萄酒だといいます。

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纏向遺跡の遺物について

200911kyoto_013 承前 纏向遺跡の古代地形

 纏向遺跡は縄文時代に土石流が起こり弥生時代にかけて人々が暮らせたり、稲作が出来る環境では無かった事を前回の記事で御紹介しました。

 突然に古墳時代が始まる頃にこの纏向地域に人々が集結したようです。しかも農耕の為ではなく都市と考えられる町(邑)を作る為であったようです。

 最盛期の布留0式期の頃(3世紀後半)の頃は2.7km₂に及び唐古・鍵遺跡の7倍、国内古墳時代遺跡では群を抜いた規模でありました。日本列島各地の土器が出土し、東は関東から九州、韓国の土器まで出土する巨大な都市が出現したのです。

 その理由は、出土遺物で鍬の出土割合が5%しか出土せず、95%が鋤という土木工事、現在のスコップの使われ方をする道具が出土するからです。

 写真はビニールシートで覆われた第166次纏向遺跡発掘現場の写真です。大型建物跡が発見された場所であります。前回、御説明したように纏向地域は沢山の川が東より西に向かい流れていました、その川に挟まれた微高地に遺跡が残っています。

 庄内0式土器編年期(3世紀初頭)から布留1式土器編年(4世紀初頭)までの期間と考えられています。(注:今年の夏に発表された歴博の放射性炭素14法の結果では少し、時代が数十年古くなるかも知れません、学会で議論中です)

 (二重口縁壺 土師器)

二重口縁壺 桜井茶臼山古墳出土この壺は桜井茶臼山古墳から出土した遺物ですが、同じ形式の壺が箸墓古墳の前方部より底に孔をうがったものが出土しています。現在は桜井茶臼山古墳の築造年代は箸墓の時代より新しいとされているが、祭祀の形態は継承していると考えていいと思います。

 (弧文円板と弧文板と吉備との関係)

 弧文円板 纏向石塚古墳出土遺物写真は弧文円板のしゃしんですが、石塚古墳から出土したものです。纏向遺跡からは弧文円板、弧文板、弧文石、特殊埴輪が出土し特殊な文様がほどこされています。写真の遺物は古墳のまわりの柱の上に取り付けられていた威儀具のひとつとされています。

 この弧文という曲線を多用した文様はヤマトには存在せず、吉備地方から持ち込まれたと考えられます。吉備地域の特殊器台や弧帯石の系譜を引くものと考えられています。

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纏向遺跡の古代地形

Himikomakimuku  纏向遺跡の古代の地形についてMuBlogで過去に掲載された地図をベースに桜井市立埋蔵文化財センターが発行している、『ヤマト王権はいかにして始まったか』~王権成立の地 纏向~という資料の『纏向遺跡の旧地形と墳墓・遺構の分布』地図を参考に概観してみましょう。

 注:地図はMuBlog 卑弥呼の墓 纏向遺跡の宮殿跡より引用しています。

 注:古墳時代初期の時代の川の復元や土器分布サークル、考古学上の地名の呼称は桜井市立埋蔵文化財センターの上記掲載資料から引用致しました。

 注:纏向遺跡 第166次調査現地説明会資料 地図参照

 (地形概観)

 ・先ず地図の一番下、箸墓古墳を含む北と南の纏向川で挟まれた土地は箸中微高地と呼ばれる。

 ・次に纏向東田大塚古墳を含む地図中央の北と南を川で挟まれた微高地を太田微高地と呼ばれている。比較的広い地形。

 ・更にその上の微高地は纏向石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳を西側に東にクサビの形のように伸び今回の大型建物跡発見現場や他田天照御魂神社を含むひょろ長い地形を太田北微高地と呼ぶ。

 ・更にその上の珠城山古墳群を含む地域を巻野内微高地と呼ぶ。更にその北の小さな川で囲まれた微高地は草川微高地、その北の一番北を流れる川の北側も草川微高地と呼ばれている。

200911kyoto_189  (土器分布)

 ・一番外側の大きなサークルで囲まれた地域は布留式土器が発掘される範囲である。

 ・中央のサークルは庄内式土器が発掘される地域であり今回の大型建物発掘現場や他田天照御魂神社あたりがその中枢地域と考えられる。

 ・地図右上の珠城山古墳群地域の小さなサークルは布留式土器の中枢地域であると考えられる。という事は、3世紀初頭に庄内式土器が集中する太田北微高地即ち、今回の大型建物発掘現場あたりが中心でその後、珠城山古墳群の地域に中心が移動したと考えられる。

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京都 嵐山・清水秋景色 (2009年)

200911kyoto_091  嵐山、渡月橋の秋景色です。

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 松尾大社対岸から嵐山を望む。

200911kyoto_090_2 松尾大社方面を眺む

200911kyoto_093 渡月橋界隈の紅葉模様

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葛野 松尾大社 その3

200911kyoto_072  (水の祭祀)

 松尾大社の神泉ですが、この奥にには小さな滝があり涸れる事が無い水に恵まれています。200911kyoto_073 古来日本では水を祭る祭祀が国家レベルで行われていたといいます。

 最近の発掘成果では明日香での酒船石遺跡での導水設備の発掘は斉明天皇が水の祭祀をされておられた証拠として記憶に新しいと思います。7世紀中頃の遺跡と考えられるが亀かスッポンの形をした石槽に山の上の酒船石があるあたりから導水し石畳のコロッセオのような場所で天皇が水の祭祀をされていた。

 天変地異の全ての責任が天皇にあると考えられていた時代、天皇の一番大事な仕事は天変地異を鎮める事であったと思います。水は生命の源であり豊穣の源でもあります。以前にカンボジアのアンコール遺跡を歩いた事がありますが、彼の地に於いても最大の祭りは水祭りでした。秦氏が如何に4世紀末頃から葛城が王権に大きな影響を与え始めた頃から平安時代にかけて祭祀の重要な立場についていたか、想像ができます。

 (宇佐神宮と秦氏)

 隋の裴世清(はいせいせい)が聖徳太子に隋皇帝の返書を持ち来朝したおり、豊後に秦王国が存在したと隋書倭国伝に記録を残している。宇佐神宮は秦氏の一族である辛島氏が建立したと考えられているが、友人の浅茅原さんの話では境内に卑弥呼の墓と伝説がある遺跡があるそうだ。

 例の奈良時代に道鏡事件が起こるが、和気清麻呂が宇佐神宮に神の言葉を聴きにゆく場面が登場しますが、それ程重要な神社であったそうだ。祭神は応神天皇なので、4世紀末に秦氏の祖と考えられる弓月君の大がかりな朝鮮半島からの移住が始まる頃であります。

 京都盆地の南を固める男山の頂上にこの宇佐八幡から分家した石清水八幡宮が鎮座しています。これも秦氏と関係がある可能性があります。森浩一先生の話では石清水八幡宮の麓に『徒然草』で有名な仁和寺の法師が間違って高良社を石清水八幡と間違って参拝した記事がありますが、本来、この場所が水祭祀の重要な場所ではなかったかと発言されています。

 高良社は継体天皇と戦争をした九州の磐井の高良社と関係が深いのではないかと森先生は記録されていた記憶があります。磐井の名前そのものが水祭祀と関係が深い事を述べられていたと思います。今、手元に資料が無いので詳細は省きます。

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葛野 松尾大社 その2

Photo  秦氏に関してもう一つ重要なものに伏見稲荷大社であります。秦氏が創建したと考えられていますが、稲荷さんの総本山ですね。この稲荷山、松尾山、日枝山(比叡山)は秦氏に取り重要な場所であったと考えられます。元糺の杜即ち木嶋坐天照御魂神社を中心に何らかの関係があると考えて無理は無いように思います。

 京都ではもう一つ重要なランドマークがあります、それは愛宕山ですね、陽が沈むあの世とも異界とも考えられ幾多の鬼の話や天狗の話や小松和彦さんの説では愛宕山を『天界・魔界へと結ぶ世界樹』と呼んでおられます。愛宕山と秦氏との関係については今のところ私には関係する材料を持っておりません。しかし、グーグルの衛星写真でみると日枝山(比叡山)と伏見稲荷大社(稲荷山)と愛宕山を結ぶと綺麗な正三角形をしていますね。

 (葵祭と糺の杜)

 現在の葵祭は御所から天皇の勅使や斎王代が列を作り下賀茂神社の糺の杜を目指し、五穀豊穣を願う行事であるが、桓武天皇の時代は元糺の杜を目指し三つ鳥居のある神泉で五穀豊穣の祭祀がなされていたと記憶しています。秦氏は農業を支配する太陽を神とする祭祀を司っていたと考えられます。

 参考 葵祭 2008年度

200911kyoto_102  例えば、松尾大社の鳥居に注目してみましょう。

200911kyoto_085 鳥居には榊の束が12個ぶら下がっていますね。これを『脇勧請』とよぶそうで、毎月の農作物のでき具合を占っているそうです。

 鳥居の原型であると神社の看板には書いてありますね。

 京都市観光協会の葵祭の説明ではルーツは欽明天皇の時代に遡るそうで、五穀が実らなかった時に占いで賀茂氏の神をおろそかにしている祟りであるとでたそうです。賀茂氏は秦氏の仲間ですが、古代からこのグループは農業、即ち太陽を支配する占いの世界では天皇家が認めていた事を示唆しています。

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葛野 松尾大社 その1

200911kyoto_069  秦氏が築いた葛野に坐す松尾大社であります。秦氏は現在太秦と呼ばれる場所を本拠地として桂川(昔は葛川呼んだと個人的には思っています)を土木工事で氾濫を食い止め京都の盆地を賀茂氏とともに開発し整備した。

 元糺の杜には木嶋坐天照魂神社を祀り湧きだす泉を力の源泉とした。此処が秦氏の出発点であり聖なる場所だと思います。

 参考 元糺の杜 魔界巡礼

 松尾大社は神社建築でも独自の様式を持ち松尾造りと呼ばれている。祭神は大山咋神(おおやまくひのかみ)と宗像の女神である中津島姫命(なかつしまひめのみこと)である。秦氏が朝鮮半島大陸との交易に関わっていた事が宗像の女神を祭る事で判りますね。それでは大山咋神とはどんな神か私も良く知りません。

 名前からして大山に杭を打つ神ですから、三輪山を御神体とする考えと同じで山の神なんでしょうね。古事記によれば、日枝山(現在の比叡山)と葛野の松尾山に坐す神であり鳴鏑(なりかぶら)を用いる神であると記録されている。というと、戦闘的な雰囲気がしますね。近江の比叡山坂本にある日吉大社が大山咋神を祭神とされています。

Photo  (秦氏の聖なるライン)

 グーグルで地図を確認すると不思議な事が見えてきました。

 それは比叡山と松尾山を繋ぐライン上に秦氏の関係する重要な遺跡が連続する事です。

 比叡山(日枝山、大山咋神)→下賀茂神社、糺の杜→御所(皇居、元は秦氏の館)→木嶋坐天照魂神社、元糺の杜、蛇塚古墳→松尾大社(大山咋神)となります。

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